苦き想いは予期出来ず


「ドクキノコってなん?」

 この一言がはじまりだった。

 ふわふわの栗色の髪を腰元まで垂らした可愛らしい少女は、大好きな男の膝元に座り、顔を仰け反って尋ねた。
 少女は現在、実家から電車で数時間掛かる祖父母の家で寝泊りしている。一ヶ月ほど両親が外国に行くのを機に、滅多に会えない血縁の許で過ごしたいと彼女自身が望んだからだ。祖父母の家は、お年寄りばかりが住む過疎地の田舎だ。子供どころか大人の姿さえ数少なく、まして道路を通り過ぎる車すらそういない。
 けれど少女と彼女についてきた幼馴染の少年は都会暮らしということもあり、近場の海や茂る草花、新鮮な魚介類や野菜といった自然に恵まれた場所が新鮮であり、毎日外に飛び出して元気に遊び回っていた。季節は秋の終わりに近く、それでも健康優良児の見本よろしく外から帰るたびに泥塗れになっている。
 そのなか本日は、遠方から彼女の叔父がお土産を持参して訪れたのだ。
 少女の無邪気な問いに、男は一瞬硬直するもすぐに緩やかな笑みを浮かべて小さな頭を撫でてやった。
「……毒きのこがどうかしたのか?」
「あんね、今日学ちゃんがドクキノコをもってきたんだーってアズがゆっとったの」
「あんのクソガキャ、相変わらず可愛げねぇな」
「んぅ、アズはかわええよ。犬みたいで!」
「犬ッコロでも懐かなきゃ可愛くねぇんだよ。むしろ俺はヒィが可愛いと思うしなぁ」
 髪をぐしゃぐしゃに掻き回されて、キャアキャア笑いながら少女は叔父との戯れを喜ぶ。と、彼女達がいる座敷と繋がる縁側で胡坐を掻いていた幼馴染が、流石に聞き流せなくなったらしく不愉快げに振り返った。チリン、と雨戸の傍らに掛かる風鈴が、季節に関係なく冷たい風に靡いて涼やかな音を鳴らす。庭に生える木々の紅葉が緩やかに舞い散った。
「っさっきからさーァ、うるさいよロリコン。ロリコンはロリコンらしく大人しく地元で幼女観察でもしてヒバリをその腐った目で穢さないでよねロリコン」
 幼い容貌から飛び出た言葉は、幼稚園年長組とは思えぬ賢しさと生意気具合を窺わせる。男の口許がひくりと引き攣った。
「テメ……ヒバリと同年代のくせになんでそんなに語彙堪能なんだ、つーか俺はロリコンじゃねぇっ。第一俺はガキが嫌いだし、ヒィが例外なだけだ」
「余計に最悪だよそれ! 犯罪になる前に離れてよロリコン!」
「学ちゃん学ちゃん」
 険悪になりつつある空気を瞬時に霧散させる小さく柔らかな手が裾を引っ張る。途端に年甲斐もなく幼馴染といがみ合っていた男は、鋭すぎる睨みをやにが下がるくらいに和らげた。
「なんだヒィ?」
「学ちゃんがもってきたドクキノコっておいしーの? キノコやから食べもんなんよね?」
 期待に輝いた無垢な眼差しは天使そのもので、この場にいる男達の心をたちどころに撃ち抜く。
 可愛すぎる……!
 可愛さが罪とはよく言ったものだ。
「あー……もらいもんだからわかんねぇけど、多分うめぇと思うぞ。なによりお前のばぁちゃんが調理してくれてるからな。だから楽しみにしとけ」
「禍々しい色をしてた気がするけどこいつがヒバリに不味いもん食べさせるわけないから大丈夫だよ、うん」
「アァン? どういう意味だ小僧」
「どうもこうもヒバリに懐かれすぎなんだよ大嫌いだお前なんか!」
 嫉妬丸出しの本音が飛び出るも、当の本人といえば「えへへ、楽しみやなドクキノコ」と、夕食の献立で頭が一杯であり、彼等の仲の悪さを微塵も理解していなかった。


 空が真っ赤に染まり、眩く沈む太陽が家屋を照らし出す頃、三人は祖父母に呼ばれて卓についた。着々と運ばれる料理に、少女は口内に溜まる唾液を飲み込む。顔には出さないようにしているつもりだろうけれど、大きな瞳は狙いすます動物の如く尖りきっている。蛍光灯に照らされた数々の料理は、すっかりお腹を空かせた少女の目にはご馳走に映る。
「これが揚げ物で、これが炊きたてご飯、あとはお鍋やねぇ」
「見事にきのこ尽くしですね」
「そらぁ学さんが大量に持ってきてくれたからねぇ、腕によりをかけちゃったよ。明日はこれで味噌汁でも作ろうかしら」
「おう、学くん今日は泊まるんだろう。酒でも一杯飲もうや」
「ははっお手柔らかにお願いしますよ」
「……とゆーかさーァ、やっぱこの色変だよ」
 と、和やかな夕食がはじまろうという時に、眉根を顰めて少年が文句を告げた。
「なんで紫、どうして紫、普通きのこっていったら茶色でしょ? なのになんで禍々しいというかきのこに紫。見てよこれ断面も紫だし!」
 お箸で勢いよく指すのは料理の中に混ざる紫色の物体だった。綺麗な薄紫が各々の料理に色を添えている。大人組は顔色を変えることなく淡々と答えた。
「とれたての新鮮なんだとよ。時間が経つと色が変わるっつーから色褪せる前にわざわざ持ってきてやったんじゃねぇか」
「アズくん、これはムラサキシメジゆうてなぁ、栽培も難しゅうてきのこ狩りとかせなそう食べられんもんなんよ?」
「好き嫌いするんやないぞ、アズ」
「うっそだーァ、こいつが持ってきたんだよ毒に決まってんじゃんどーくー! それに土臭いっ洗ってんのこれ!?」
 毒ではないと祖父母に完全否定されても、叔父に生じる対抗心だけは消えうせるわけでなく、こういうときに限って見目相応の罵りしか出ない様子だ。隣の少女を取られまいとする威嚇は、年をとった者からすれば微笑ましいものに変わりなく、やけに和やかな空気が流れた。
「アズ、これシャキシャキしておいしーよ」
 まして少女が頬を綻ばせて食べているのだから哀れとしか言いようがない。拗ねて唇を尖らせる少年の傍らで叔父がからから笑う。
「そらよかった。ヒィが喜ぶかと思ってわざわざ持ってきたしな、苦労の甲斐があったぜ」
「クソッ……プレゼントで点数稼ぎなんて最低なんだからね! 食べ物で釣るなんてなんて奴だ!」
「ほう、最低ねぇ。じゃあその最低ってやつを見せてやろうか」
 叔父は少女の後ろに移動し、「おいヒィ」と呼びかけた。少女は茶碗を手に振り返り、小首を傾げる。
「なん?」
「毒きのこはうまいか?」
「うん! ドクキノコってものすごくおいしーんやねっ」
 少女は満面の笑みで頷いた。そうかそうかと満更でもなく男も嬉しげだ。
「じゃあそれを持ってきた叔父さんにご褒美はねぇのかな。キスでもハグでもいいぞー?」
「っっこの親父!」
 憤りを込めた睨みをきかす少年も何処吹く風で、男は人相の悪い顔立ちに悪戯を仕掛ける悪童のような一面を覗かせる。明らかに少年を挑発して愉しんでいる風であったが、幼い少女にそれがわかるはずもなく「わかった!」と易々と承諾してすぐに可愛らしい顔を突き出した。
 ふに、という音が室内に響いたような気がした。
 男の端整な唇に、少女のふっくらとした唇が触れた。
 その光景は誰もが予期していなかった出来事であり、
「ああああああああ――っっ!!」
 少年は悲鳴をあげてその場から勢いよく立ち上がった。
「あらぁ、ヒバリったら積極的やねぇ」
「学くん好かれとんなぁ」
 祖父母は特に驚きもせずにこにことこの状況を楽しみつつ、いそいそと料理に手をつけている。
 そして男といえば、
「ありがとうな、学ちゃん!」
「……ああ」
 猫可愛がりしている姪を直視できず、頭を掻いて顔を俯かせていた。その耳がうっすらと赤いのを目敏く見つけた少年がロリコン発言を再開したのは言うまでもない。


 数年後。
「あ、これなんか食べたことある」
 実家の食卓で、母の料理を口に運んだ少女は、丸みを帯びた頬を動かして咀嚼した。土臭く、けれど歯応えの良い独特さは秋の風味を思わせる。きのこにしては少々珍しい味わいは過去の記憶をうっすらと振り返らせ、首を捻らせる中、同様に向かいの席で箸を突く幼馴染が言った。
「ムラサキシメジ……」
「アズ、知っとんの?」
「うん、よーっく知ってるよ」
 怨念の篭る響きに、少女はますます疑問を浮かばせるも、追及するより先に食事に専念することにする。だから少年が憎憎しげに並ぶ品目を見ているのに気付くことはなかった。
「紫のきのこなんて大嫌いだ……」
 もちろん、ぽつりと呟かれた独り言にも。


 (小説TOP) (春つげの魔女TOP) (END)