[1]


 血溜まりに落ちた躯は重く、自己を保つ意識は朦朧として今にも途切れそうだ。
 ――ああ、死ぬんだな。
 漠然と、しかし確信をもってそう思った。
 感覚は既に痛覚とは遠く離れた場所に位置し、凍えるような冷たさだけが浸透し意識すら呑み込んでしまいそう。「死」という概念をこれほど身近に感じていること自体どこか客観的に見ており、どこかでほっとしている自分がいた。
 本当は、死にたかった。       
 ようやく死ねる、と安堵していた。
 それなのに、目を閉じようとすると必ず「彼」が引き留めてくるのだ。大粒の涙を流しながら、死の淵から呼び戻そうと幾重にも呼びかけてくる。深い色をした紅の瞳が絶望に満ちているのが見てとれて、その原因が自分にあるのだと思うと、刻々と死に近付いている今でも愛しさが湧いた。

 ごめんね。
 ごめんなさい。
 貴方を悲しませることしかできないわたしを許して――





 大袈裟なまでに躯を震わして、少年は目を覚ました。
 心音は激しく波打ち、呼吸することさえ困難なその部分を摩りながら忙しなく辺りを見渡す。荒い息遣いを繰り返して暗闇のなかギョロギョロと目を動かし、ここが自分の部屋だとわかるとようやくほっとして、徐々に頭が冷えていった。
 前髪を掻き毟りながら細い吐息をついて、ふと気が付く。スウェットがびっしょりと濡れて全身汗まみれだった。毎度のことだとしても嫌悪が消えるはずもなく、少年は顔を顰める。前髪にかかった汗が目許まで垂れてくるのを乱暴に拭い、ゆっくりと半身を起こした。
 季節は春。気温はそう高いわけでなく、それならば何故、このような状態になるだけでなく、地に足がついていないようなおぼつかなさを覚えるのか。
 少年は気だるさを拭いきれない重たい躯を意識し、その心当たりに舌打ちをした。
(また、か)
 二ヶ月ほど前からだ。
 二月十六日。その日を機に、少年は夢を見はじめた。ただのではない、赤一色が視界いっぱいに広がり、生々しい「死」を実感させられる悪夢そのものだ。
 繰り返し繰り返し、絶えず同じような映像が流れ、しかも最後は冷や汗でびっしょりになるほどの恐ろしい衝撃が心身共に襲って意識を取り戻す。ただし夢というだけに、起床後、時間が経つにつれてその内容がどのようなものだったか朧げになっていくのだ。あまりに意味のない悪循環に辟易するが、手の施しようがないために放置するという救いようのない選択肢しか取れずにいる。
「っくそ」
 汗だくになった上のスウェットを乱雑に脱ぎ捨て、ベッドから降り立つ。濡れた素肌が外気に触れ、一瞬身震いするもすぐに着替える気になれず、不意に机上にある時計に目が留まった少年は、針の指す時刻に苦々しさが込み上がらずにはいられなかった。
 午前三時。床についた時刻をはっきりと記憶しているわけではないが、それでもあまり経っていないことが知れる。鏡越しで知った、目許にくっきりと浮かぶ隈が脳裏に浮かび上がり、無意識に指でなぞりながら眉間に皺を寄せた。
 カーテンの隙間から、差し込む僅かな光が一本の線を作り、薄暗い室内をうっすらと照らしている。
(そういえば)
 夢の自分も深い闇の中にいた。
 覚醒した今、記憶はどんどん薄れていき確証はないが、何故だかそうだといえる。
 まん丸の金の月が空を照らして、
 まん丸の二つの紅が自分を映して、
「……ん?」
 少年は脳裏を掠めるその色彩に首を傾げた。
 ――二つの、紅?
 何故だろう。一度思い出すと決して頭からついて離れず、徐々に胸の辺りが苦しくなっていく。少年は胸元を押さえ、ずくずくと膿んだような痛みを発しはじめるそれに戸惑いを覚えた。
「いったい、なんだってんだ」
 紅に何か意味があるとでもいうのだろうか? 
 しかし根本的な原因がわかるはずもなく、少年は部屋の中央にてただただ立ち尽くすしかなかった。


 一方、その頃、雲ひとつなく晴れ渡った夜空に、際立って存在する欠けた金色の真下、シンと静まり返った住宅街を通るコンクリートの地に一つの影が存在した。容赦ない月光が下界に降り注ぎ、闇に紛れていた姿がはっきりと現れる。
 それを人間と括るには、あまりに幻想的な容貌をしていた。
 腰まである曇りのない真っ白な髪が銀の輝きを放ち、滑らかな曲線を描く華奢な肢体を覆う肌は、食欲をそそられる綺麗な蜂蜜色をしている。影――十代後半と推測される少女は、しかしその外見に似つかわしくないセーラー服を身に纏っていた。
 表情は顔が伏せられていて、よくわからない。しかし濃い赤色をした艶かしい唇が、笑んでいるというよりも歪んで釣り上がっていた。
「……ようやく、見つけた」
 どこまでも甘く、隠微な毒を含んだ甘美な蜜を惜しげもなく晒す声音が辺りを響かせる。さも可笑しげに、くすくすという笑い声と共に顔があげられ、ようやくその全貌が明らかになった。
 ひとつひとつのパーツが絶妙な位置に配置された、体温を感じさせない冷たい美貌をしていた。
 そのなにより特徴的なのは、唇よりも深みを帯びた紅の光を宿した瞳だった。

「今行くからな。――蘭」





 朝から騒がしい教室のなか、たったひとり、窓際の席でその空気に溶け込まずぼんやりと外を眺めている少年、伊藤祐介は重たい瞼をこしこしと擦りながら欠伸を噛み殺し、窓越しから見えるなんら変哲のない空の眩しさに目を眇めた。
 視線を下へ下へとずらしていけば、校門から少し離れた正面に、淡いピンクの木々が平行な二本の線を作っているのが目に入る。遠目に見ても美しいそれは、真下を通ると視界いっぱいに満開の花が溢れてなんだか幸せな気持ちになれるのだ。この高校に進学した理由も、単純ではあるが、この並木道があるから。
 女々しさを感じずにはいられないが、祐介は心が揺さぶれるほどに、幼い頃から桜が大好きだった。
(見てるとすげえ安心する)
 不眠症に近い状態になっている今でも心が安らぐ辺り、相当なものだろう。
「伊藤」
 数秒経過した後に、祐介は自分が呼ばれたことに気付く。なにぶん睡眠不足のため、意識がそうはっきりしていないのだ。
 遅い反応ながら、ゆったりとした動作で教室の方へ顔を向ける。いつの間に来たのか、すぐ目の前に「友人」の姿があった。腕組みをして、尊大な態度で祐介を見下ろしている。祐介は胡乱げに目を眇めた。
「……なんか用」
「おまえ、なんでバスケ辞めたんだよ」
「またその話か」
 彼は祐介と比較的仲の良かった部活仲間だった。なにもする気力がなくなり、春休み中勝手に退部届けを出したことにいたく不満らしく、こうしてほぼ毎日声をかけてくるのだ。
 おもむろに溜息をつくと、彼は眉根をぐっと寄せて詰め寄ってきた。
「だっておまえ、あんなにバスケ好きだったじゃん。一緒にレギュラーとろうって、がんばろうって言いあって……しかも最近顔色悪すぎだし。いったいなにがあったんだよ」
「だから、気が変わっただけだし、顔色も単にお前の気のせいだって」
「ちがうだろっ」
 朝からこのような面倒事を持ち込む彼に、徐々に苛立ちが込み上げてくる。一応周りを気遣って声を潜めているようだが、近くにいる生徒たちは二人の間にある気まずい雰囲気を察して、居心地悪そうに、しかし隠しきれない好奇心を含んだ視線をこちらへ向けてくる。
 彼の言動も周囲の態度もすべてが煩わしく、祐介はすぐに耐え切れなくなり半ばやつあたり気味に言い捨てた。
「お前には関係ないだろう」
 息を呑む声が聞こえるも、罪悪感すら浮かばなかった。
 胸を燻るのは、憤りだけだ。
 話は終わったとばかりに彼から顔を背け、また外の方へ視線を移す。しばらく続いた沈黙の後、彼は怒りをありありと滲ませた一言を吐き捨てて立ち去っていった。それは祐介の胸に針を突きたてるような痛みを与える。
 ――おまえ変わったよ。
 ただしそれは、罪悪感とは無縁の、自分の変わりように対する自嘲のようなものだったが。
目に映る景色は季節の移り変わりと共に変化していき、それを見つめる祐介自身もまた、急激ではあるが変わってしまったことは事実だった。
 祐介は現実と夢との境目を見失いはじめて、それらについて誰にも相談したことがなかった。
 誰かに縋りたいと思ったことは幾度とある。しかし口にしたら最後、異常者扱いされて病院に強制入院させられてしまうにちがいない。検査を受けさせられるのもごめんだ。このような話、冗談でもない限り他人から聞かされても、もし自分なら絶対受け入れないからだ。それどころか自殺願望者扱いするかもしれない。
 ――毎日死ぬ夢を見る、それだけでなく実感まで湧いてしまうなんて、誰にも言えるはずがない。
 祐介は己の立場というものを自分なりによく考え導き出していた。
 世間から外れる可能性を生み出す発言は控えた方がいい。それだけに吐き出せない苦痛は祐介をますます疲弊させ、夢を見はじめて数日後には、自分の身に起きている異変が心身共に蝕みはじめ、半月が経過した頃には人間関係に支障をきたすほどになっていた。
 これ以上状況が悪化することはないと思うが、既に約二ヶ月が経ち、最悪家族には取り繕ってはいるが、それもいつまで保つかわからない。「友人」についても、以前は仲が良かったといっても、今では煩わしい存在としか捉えることができなくなっていた。
 それほどまでに追い込まれられており、祐介の顔には表情という表情がすっかり抜け落ち、疲労だけが色濃く残っていた。
(ねみい……)
 頬杖をして、こっくりこっくりとぐらつきそうになる顎を固定する。
 こうして幾度眠りの世界に堕ちてしまいたい衝動に駆られたことだろう。しかし熟睡したらまた、あの衝動が襲いかかってくると思えば耐えるしかない。体調不良にも関わらず学校に来ているのも、体裁というのもあるが、家にいてもすることがなく、退屈ですぐに寝てしまいそうになるからだ。
 昨晩は気のゆるみでベッドで眠ってしまった祐介だが、最近では夜遅くまで机にかじりついて勉強する習慣がついていた。そうでないとあっけなく意識が途切れそうになるからだ。
(こんなこと、いつまで続くんだろ)
 まさか一生なんてあるはずがない、一過性のものでないと困る。そうでないといつしか自分は狂ってしまうだろう。
 望ましくない最悪の未来を想像してしまい、祐介はネガティブな雑念を振り払うようにかぶりを振った。


 (小説TOP) (次)