Round-T/001


 ――どうして世界は優しさだけで満ち足りないのだろう。
 街中の雑踏に紛れて、一人の少女が青々とした快晴の空を睨み据えていた。
 胸の辺りまでまっすぐに伸びた艶やかな黒髪と、前髪からのぞく二つの瞳の輝きは光の加減によって灰色とも青紫色とも、オペラグラスのような変化を見せ、なんとも不可思議な色合いを宿している。また白磁の肌が覆うほっそりとした身体は、呆気なく折れてしまいそうなくらいに華奢で、その日本人離れした容貌は見る者を惹きつけて離さない。誰もが見惚れる美少女が人ごみに埋もれることなく凛と佇んでいた。
 道路を挟んで向かい側の信号が青になる。少女は前方に目線を戻し、人の群れに混じり止めていた足を動かしはじめた。このとき既に瞳に秘められた激情はなりを潜めていた。
 休日の都会はささやかな休息を満喫する人で雑然としている。無機質な建物に囲まれる空間は物質面に満たされるに反して、騒音や汚染に塗れてひどく住みにくい。少女がここに引っ越してきて幾年を経たが、今だに慣れることがない。
 それに少女が感じる煩わしさはそれだけでないのだ。
 ――無数の目が、つきまとう。
 通常なら他人を歯牙にもかけない連中が、少女の姿を視界におさめた途端まるで芸能人に出くわしたかのような熱意の篭る眼差しを送ってくるのだ。ただし絡んでくる輩は相当空気の読めない愚か者に分類されるが。
 それほどの注目を常に浴びる場合、無視出来ない対象者が覚える感情は大きく二つに分別される。優越感か、はたまた鬱陶しがるかである。少女はどちらかといえば後者に属するが、正確にはどちらでもない。無視するのは容易で、空気と同じに扱うなんてわけないが、それでは駄目なのだと知っているからだ。
 それでは己の身を守れないのだと少女は知っていた。
 常に観察し先読みし危険を察知し回避する。一切の情を必要とせず、他人との距離を正確に測りとる。
 それだけの影響力を及ぼす見目であると、十七という若さで少女は自覚していた。


 少女の向かった場所はいくつもの電車を乗り継いだ先、都会の喧騒から遠く離れた国立総合病院だった。しかし目的地は建物でなく裏庭の方だ。
 真昼の裏庭は入院患者がちらほらと見かけられ、春の暖かな気候に照らされて広がるそこは自然の香りに満ちていた。街中の雑踏と離れているとはいえ都会のど真ん中にあるのだ。コンクリート詰めの灰色の建物に囲まれているくせに、こういった環境を作り上げる病院はどこまでも患者に優しい。
 木々と草花の間を舗装路が敷かれており、少女はそこを歩きながら目的の人物を探す。
 裏庭には、犬連れの散歩に勤しむお年寄りや芝生の上で鬼ごっこをしている子供達など、中には明らかに外部の者もいて、そこらの公園と変わらぬ空気が漂っている。街中から離れているからか騒音もそれほどなく、まさに格好の憩い場なのだろう。
 そのなか彼女がいた場所は、ある意味とてもわかりやすい、中枢にそびえ立つ大木の前だった。
 桜の季節はとうの昔に過ぎたはずなのに、遅咲きの立派な桜の花が辺りを艶やかに飾り立て、そのピンクの花びらがひらひらと地に舞い落ちる。その様を穏やかな表情で見守る横顔も艶やかな黒髪も、少女の容貌とひどく似通っていた。
 車椅子に乗った彼女に同伴する看護婦がまっさきにこちらに気付く。看護婦はすっかり顔見知りの少女に軽く頭を下げた後、「黒崎さん」と彼女の肩を優しく叩いた。
「雛夜ちゃんが来ましたよ」
「……あら。雛夜、雛夜じゃない」
 彼女は儚げな雰囲気を一変させ、少女がいると知るやいなや、幼女を思わせる無垢な笑みを浮かべて手を伸ばしてくる。年齢不詳の美しさを纏う彼女が、それだけのことで可愛らしい乙女になる。
 毎度ながら彼女と顔を合わせるたびに否応なく切なさが込み上げてしまうのは、この状況が決して見た目通りの穏やかなものでなく、薄いベールで覆われたかりそめに過ぎないからだろう。それでも荒れ狂う変化に投じるぐらいならこのままでもいいと思っている。決して訪れることのない平穏に対面しても、良いことなど何一つとしてないからだ。
 少女は彼女の前まで行くと、か細いその手にそっと自分のものを重ねた。
「今日は元気みたいですね。何か良いことでもありました?」
「ええ、とっても。ほら上を見て。目の前の桜がとっても綺麗に咲いているの」
 言葉につられ前方で淡いピンクの雨を降らす樹木を見上げる。その野太い幹からは力強い生命を窺わせ、同時にあっという間に散っていく四季故の儚さを感じさせた。少女は内心忌々しげに舌打ちする。
 少女は表には出さないが、こういった刹那的な物を嫌っていた。愛でたところでどうせいなくなってしまうのなら、はじめから関心すら向けたくない。
「そうですね。とても綺麗です」
 だけど彼女が心穏やかに笑っていられるのなら、愛おしむふりぐらいなんてことない。
 少女は笑う。
 つられて彼女も笑う。
 なにより少女にとって一番綺麗なものは、目の前にいる彼女なのだから。
 その後、彼女とはとりとめない話をいくつか交わして別れた。いつもなら病室までついていくところだが、今日は滅多に帰ってこない父親が家にいる日だ。夕飯の準備をしなければならない。
「雛夜」
 寂しげに名前を呼ばれ、縋るような目から顔を背ける。
「すみません。この人のこと、よろしくお願いします。……また来ますから、絶対に」
「本当に? 本当に来る?」
「ええ。破る約束ははじめからしませんよ」
「黒崎さん、雛夜ちゃんが困ってますよ。検査の時間も近いですし、そろそろ行きましょうね。それじゃあまたね雛夜ちゃん」
「ええ、また」
 車椅子をカラカラ鳴らして、看護婦と共に去っていく後姿を見送る。
 昔は快活さに溢れていたのに、今ではあの有様だ。あまりにも小さく映り、何かあれば呆気なく折れてしまう純白の百合が浮かんだ。
「――母さん」
 周囲に聞こえない程の小さな呼びかけは、温かい春の風に攫われていく。
 黒崎百合子。
 それが少女の母親の名前であり、長年欺き続けている相手の名前でもあった。





 夕飯の準備を終えてリビングのソファで本を読んでいる最中、玄関から扉が開く音がする。少女はキッチンのコンロに向かい、冷め切ったカレーとトマトスープに火をつけた。
 ダイニングのテーブルには三人分の箸が並んでいる。そのうちの一人の帰宅はあまり期待していなかったが、こういう日ぐらいは気を遣って顔を出してほしい。多忙に追われる父親は薄情に映るだけで、本当は家族に対する愛情は人一倍持っている不器用な人なのだ。
 料理が温まる頃にリビングの扉が開かれる。私服に着替えた中年男性が入ってきて、少女に目を留めた途端、垂れ下がった目許をますます下げた。
「ただいま。いい匂いがすると思ったら今日はカレーか」
「うん。ちょっと手抜きで申し訳ないけどね」
 そんなことないよ、と嬉しそうな態度で椅子を引く父親と向かいの席に料理を運ぶ。彼は隣の席に置かれた箸を見て、少しばかり寂しげに肩を落とした。
「秋人は今日も帰ってないのか」
「今日はたまたまだよ。さっき連絡があったんだけど、湊さんとの約束の前に友達との予定が入ってたんだって。お箸片付けんの忘れてたよ」
 もちろん嘘八百だ。しかし少女の父親――湊はあっさりと信じた。
 少女の弟にあたる秋人は、一般でいう不良と呼ばれる人種に属している。家庭環境を振り返れば、道を外してしまう理由はいくらでも思い当たるが、それでも少しぐらい大人になってほしいとも思う。
 非行に走るのはいい。しかし誰かの負担になるような行いをされては迷惑極まりない。少女だけならまだしも父親の心労に関わるとなれば、これは一度秋人と話し合うべきかもしれない。
「そういえば……百合子さんはどうだった?」
「元気だったよ。裏庭の桜が綺麗に咲いていてね、それを見て喜んでた」
「そうか、それはよかった」
 こういう会話をするたびに尋ねたくなる。
 湊さんはお見舞いに行かないの、と。
 だけどその問いかけはいつもの如く閉じるしか出来ず、口を噤むしかない。
 はじめの頃はともかく、ここ最近では仕事を理由にして彼女の許に足を運ぶ気配すらない。こうして自分に尋ねてくるぶん気にしているのは知れるし、浮気の心配などいらないぐらい稀に見る堅物だ。
 ――だからこそ、母さんのところに行くのが辛いのだろう。
 少女も身に覚えがあるから何も言えない。
「鴇夜君」
 湊の呼びかけに顔を上げる。
 久々に呼ばれた名前はしっくりと胸に染みた。
 母親が呼ぶ雛夜。
 父親が呼ぶ鴇夜。
 どちらも少女にとって意味のある名前だった。
「髪が結構伸びたみたいだけど、学校で何か言われたりしないの?」
「ああ……いえ。うちのところ校則緩いですし、僕このとおり母さん似の美人なんでむしろ人気者ですよ」
 髪を指で絡めながら冗談めいて言うと、くすりと笑われる。
「先生方にも覚えがいいですし、だから特に何も。けどさすがに私服はロングに似合わないのを着るのもなんですし、それなりに考えてますけど」
 現在の格好はジーパンにボーダーシャツといかにも簡素だが、だからこそ秀麗な容貌がよく引き立つ。
「確かに今の格好もよく似合うね。まるで……いや。モデルみたいだ」
 湊が何を言いたいのか、少女にはわかっていた。
 雛夜に瓜二つだね、と。
 そう言うつもりだったのだろう。
 対して少女……いや本来なら少年である鴇夜はうっすらと微笑んだ。


 小説TOP / Non-clock WorldTOP /