Round-T/002


 歪な家庭環境となった原因は、十年前の過去に遡らなければならない。その事件は今でも黒埼家の面々に多大な影響力を及ぼし、その象徴の第一に百合子が存在する。
 鴇夜には瓜二つの妹がいた。雛夜という名前の女の子だ。実母は百合子、本当の父親は双子を生んだ直後に交通事故で死んでいる。その数年後に再婚をしたのが黒崎家だ。
 冴えないけれど優しそうな義父と双子より幼い義弟は、すんなりと鴇夜の家族のポジションにおさまった。小さな街で築く新しい家族との日々は、短い人生の中で最も幸せな時だったのかもしれない。
 その頃は秋人とも仲良く、よく雛夜の三人で遊んでいた。
「ねえねえトキちゃん」
「ヒナ、どうしたの?」
「あのねえ、トキちゃんはアキちゃんのことどう思ってるの?」
 ひとつ年下の秋人がまだ幼稚園で、二人で登下校をしていた時期、雛夜はたびたび秋人のことを尋ねてきた。自分より下の存在が出来たことが余程嬉しかったのだろう。年頃よりも幾分大人びていた鴇夜は、無邪気な質問にしてはなかなか際どい内容によく頭を悩ませられたものだ。そして毎回同じ答えを返した。
「好きだよ。もちろん弟として」
 正直に答えると「あたしもスキ!」と元気の良い同意が返ってきた。勿論色っぽい気配なんて皆無である。
 雛夜はあまりにも無邪気だった。人一倍警戒心が足りなくて、根っからの末っ子気質だった。だからこそ目を離してはいけなかったのに……鴇夜も大人びているとはいえ所詮子供だった。
 またその頃の母は明朗快活で近所で評判の美人だった。百合子は連れ子の秋人も可愛がっていたけれど、何より双子を溺愛していた。特に甘え上手の雛夜には惜しみない愛情を注いでおり、それを男衆が微笑ましく見守るという光景は日常茶飯事だった。
 だからこそあの悲劇は未だに尾ひれを引いている。引かずにいられようか。
 その平穏が崩れたのはある日突然だった。
 予感とか、きっかけとか、そんなものは一切なく、前触れなく訪れた。
 珍しく鴇夜と雛夜が別行動をとり、各々の友達のところに遊びに出かけた時のことだ。
 幼いことも理由に挙げられるだろうが、双子とは不思議なもので、互いの存在が傍にいないと途端に不安に駆られることがあった。しかし男女の性別はどうあっても変えようもない事実で、時折別行動をとることになるのは致し方なく、この日もその一環に過ぎなかった。
 雛夜との別れは、未だに脳裏に鮮明に焼きついている。思い出しては胃が痛くなるどころか潰れる寸前に等しいひどい軋みをたてて、胸元を押さえずにはいられない。
 雛夜は最後まで笑顔だった。「いってきまーすっ」と、同じ年の友達数名と駆け出していく。いつもどおりの光景だった。そのはずだったのだ。
 その日の夜、雛夜を含め彼女達全員が自宅に戻らなかった。
 大人達は不安に駆られ、警察に通報した後自分達も探しに街へ繰り出す。
 自宅で連絡を待つ母は、申し訳程度につけられた明かりの中、ダイニングテーブルに置かれた受話器を前にして人差し指を鳴らしていた。美しい女爪が鳴らす規則正しい乾いたリズムは、鴇夜の心臓をぎゅっぎゅと絞っていくようで、夜更けになっても帰ってこない妹のことを思えば眠気など一切訪れなかった。
 秋人の場合、幼すぎて事態をよく把握しておらず、「ヒナちゃはどこにいーのお?」と無垢な目で尋ねてきた。
「知らないよ!」
 気付いたら怒鳴っていた。怯えて泣き出した弟の姿にますます苛立った。蹴り飛ばしたい衝動のままに実行に移そうとするが、その直前百合子に止められた。
「どうしたの。喧嘩なんてしたことなかったのに」
 窘めてくる百合子にも腹が立った。
 これまで険悪な喧嘩に発展しなかったのは、一重に鴇夜の忍耐によるものだ。そしてその精神安定剤は雛夜の存在そのものだった。その雛夜がいない。自分の傍にいない。
 深夜になっても雛夜は帰ってこなかった。湊が帰宅して錯乱しかける百合子を抑える光景をぼんやり眺めていた。

 数ヶ月後、犯人と共に――複数の少女の死骸が隣町の山奥で発見された。調査の結果、そのなかに雛夜ともうひとりの女の子の姿は見当たらなかった。しかし犯人は全員を殺害したと供述し、この事件は幼児殺害の罪で逮捕されることで表向きは幕を閉じる。
 これにより黒崎家を含む被害者の家族たちの平穏の歯車が狂いの一途を辿ることになったのだ。





 学校の体育館裏は不良の溜まり場の定番だ。都立志麻高校でもそれは変わらず、耳障りな笑い声と煙草特有の臭いが纏うそこに鴇夜は足を運んだ。
 案の定、秋人はそこで柄の悪い連中と煙草をくゆらせていた。
 元は黒い髪も痛むまで染め上げたまだらな金髪は今時のギャル男を浮かばせてなんだか小汚い。そのうえ制服を過度に着くずし、特に腰パンの位置が低すぎてトランクスが丸見えだ。やりすぎは逆に格好悪い。秋人から少し離れた場所に座る彼等も同様で、もし弟がこのなかにいなければどれも同じ顔ぶれに見えたに違いない。
「あ、お兄さんだ」
「あーまたか」
 鴇夜の姿に気付いた不良が、慣れたもので険を立てることなく煙草をふかす。
 一方、秋人は仮面をつけたかのような無表情を、途端忌々しげに歪めて銜えた煙草を地面に落とした。それを踏み潰してゆらりと立ち上がる。鴇夜はそんな気怠げな態度に不快を示し、秋人の目の前まで行くと鋭い目付きで睨み据えた。
「秋人、煙草は卒業しろと何度も言ったよね。あと捨て煙草もよくない。教師に見つかったらどうするんだ、拾いなさい」
「っせーな。テメェには関係ねぇだ……」
 パンッと歯切れのよい乾いた音が辺りに響き渡った。
 鴇夜は瞬時に出した右の手の平をひらひらと振ってみせる。その眼差しは絶対零度を思わせる冷たさを帯びて、秋人を明らかに見下していた。
「秋人にテメェ呼ばわりされる覚えはない。……さ、拾いなさい」
 秋人は充分に手加減された頬を指でなぞり、逆上するどころかばつの悪い顔をする。そして渋々とだが潰れた煙草を拾い上げて携帯用灰皿に仕舞った。
「ッハ!」
 そんな二人を眺める不良のうち一人が腹を抱えて笑い出す。
「ハハハッ秋人ダッセェッ、あいかわらずお兄さんには弱ぇなあ。お兄さんもあいかわらず手ェ早いし。ま、お兄さんほど美人に殴られたらオレも怒るどころか落ちこんじまうかもしんねーけど!」
 鴇夜は自分を指差す少年にまんま冷めた視線を投げる。
「……あんたは秋人の友達?」
「そ〜で〜す、てか何度か会ったことあるけどねっ片思いってつら〜い。飯島敦って言いまっす。つーかお兄さんは煙草を注意しにきたんじゃなくて秋人になんか用事あるんでしょ?」
 鴇夜の酷い対応にめげるどころかあからさまにデレデレと表情を崩す飯島を秋人は睨み付ける。飯島は「お〜こえ〜」とわざとらしく肩を竦めるが、言葉とは裏腹心底楽しそうだ。秋人は苦々しげに溜息をついた。
「トキ、こんな奴の名前なんか覚える必要ねえ。それより用件を言え」
「わかってるだろ。昨夜父さんが帰ってくるの知ってたはずなのになんで約束を破ったのか聞きに来たんだよ。それにまた連絡先変えて。毎度それじゃいい加減困るんだよ」
「……気分で変えて何が悪い」
 秋人自身よくない傾向だと自覚はあるらしく目を泳がせている。
「何が? 気分どころか湊さんが帰宅するたびにそれじゃないか。帰らないにせよそんなバレバレな態度とられたら困るって言ってるんだ」
 はっきり言ってやると秋人は苛立った睨みをこちらにきかせ、しかし鴇夜は余裕綽々で鼻息を鳴らした。
 秋人がこうして両親を避けるようになったのは今にはじまったことではない。
 事件後、マスコミが無駄に騒ぎ立てたことや、時間の経過に比して百合子の様子がおかしくなりはじめたことなど悪循環が積み重なり、それは幼い鴇夜達にも多大な影響を及ぼした。周囲の子供たちは彼等を遠巻きにし、何かあれば常に事件を引き合いに出し憐れんでみせる。それは大人たちも例外でなく、鴇夜でさえ引き剥がせない苦悩の枷が心身共に疲弊させ、圧迫される重圧が込められているように感じた。
 十年も前のことだ。しかし状況を理解するには幼すぎる秋人も何かしら感じるところがあったのだろう。年をとるにつれて反抗的な態度が目立つようになり、それは百合子が精神科にお世話になることでより顕著になった。
 隣町に引っ越して環境が少し落ち着いたところで、それが変わるはずもなく。
「もし僕がいなくなったらどうするんだ……」
 不意に浮かんだ問いだった。
 この危うい均衡をかろうじて保っているのは自分の存在だ。その自分が雛夜のように消えてしまったら、残された彼等はどうなるのだろう。そんなことは万が一でもありえないが、本当にそんな事態に陥ったりしたら残された三人はまっとうに生きていけるのだろうか。
「っ痛」
 思考に耽る中、突如右手首が悲鳴をあげる。徐々に強まる痛みに伏せた顔をあげた先、秋人がいつになく険呑な面持ちで鴇夜を見下ろしていた。鴇夜の目付きが自然ときつくなる。振り払おうにもあまりに暴力的な力は体格的にも敵いようがなく、すぐさま諦めて抵抗する力を抜いた。
「なんだ秋人、痛いから離せ……」
「っいい加減に、しろよ」
 苦痛に満ちた、噛み合う歯の奥から絞り出された低音が降り注いだ。
 なんで。それだけで返す言葉を失った。実際のところその頬は渇いているのに、鴇夜の目には秋人が涙を流しているように見えた。
「ヒナの顔して、ヒナみてぇに髪伸ばして……そのうえヒナみてぇにいなくなるって?」
 ヒナ。ヒナみたいに。
「っざけんな! ンな冗談にもならねぇこと口にすんじゃねえよ……っ!」
 鴇夜はぽかんと目を見開いた。秋人はそんな鴇夜の様子を不快げに舌打ちし、掴んだ手首を乱暴に解放する。そのままズボンに手を突っ込んで歩き出した。
「っ秋人、どこ行くんだよ!」
「ゲーセン」
「うぉいっオレも行くから置いてくなって。んじゃお兄さんまたね〜!」
 二人を眺めていた飯島も慌てて立ち上がり、手をひらひらと振りながら去っていく。
 残されたのは重たい空気と数名の不良達。鴇夜もまた暫くして、彼等からのぶしつけな視線が突き刺さるのに気付いて、この場違いなところから移動しはじめた。
 秋人に何を言われたのか、その言葉の意味をいまいち理解しきれていなかった。掴まれた手首の部分が赤く腫れているのがシャツの隙間から見えて、苦々しさが込み上げる。
 あれだけ取り乱す秋人はいつぶりだろうか。雛夜の名前を秋人の口から聞いたのも久しぶりで、それだけ彼も彼女の存在を鴇夜とかぶらせていたことを今さらながら悟る。鴇夜と顔を合わせるたびに嫌がるのも至極当然だ。
 ――けれど、仕方ない。僕は雛夜を演じているのだから。
 家族全体がこれでは説教すらできやしない。
 あの事件以来、家族の誰一人としてまともな人物などいないのだ。今は学ランを着ているからかろうじて鴇夜と判別出来るが、一卵性の双子である自分が髪を伸ばした見目は、男女の違いを通り越して成長した雛夜と勘違いされてもおかしくない。周囲の男子より些か未成熟なことも拍車をかけているだろう。
 そしてその事実を知りながら利用しているのは何より鴇夜本人なのだ……母が、鴇夜を雛夜と捉えるようになってから。ずっと。ずっと。


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