Round-T/003


 例の殺人犯の名前は覚えていない。覚える気もなければ知りたくもない。ただ雛夜を殺した奴とだけ認識している。
 事件当時、偶然目にしたニュースで公表された姿は、幼い自分でも倒せてしまいそうなぐらいに線の細く、干からびた蛙を浮かばせる幸薄そうな面差しをしていた。反して窪んだ目は澱んだ沼底のようにどろりとして、一瞬カメラを捉えた瞳は生気のないミイラそのもので、底知れぬ闇を感じさせた。
 犯人が雛夜達に手をかけた理由や、彼自身の生い立ちなど、どのような情報が報道されようと耳をすり抜ける。映像越しとはいえ、本当は顔も見たくもなかった。
 法の裁きなど社会が取り決めたルールに過ぎず、そんなものでこの男の命運が左右されるぐらいなら自分の手で血に染めてやりたいと何度思ったことか。渦巻く悲しみの内側にほの暗い怨念がじわじわと侵食していき、男が歪んだ笑みで雛夜に手をかける悪夢で目を覚ますたびに後悔の渦に襲われ、そして益々奴に殺意を巡らせるのだ。
 最低最悪の悪循環に蹴りをつける方法は何一つとしてなく……だからこそ呑み込まれるわけにはいかなかった。
 憎くて、憎いなんて言葉じゃ片付けられなくて、けれどそんな気持ちに支配されていてはこの先どうやって生きていけばいい? 雛夜。自分の愛しき半身。お前がもうこの世に存在しないなんて、僕は未だに信じられないんだ。遺体は発見されていない、犯人の言葉なんて信じられるわけがない。だからお前のために涙は流さない……もし泣いてしまえば雛夜の死を認めてしまうことになるのだから。
 そんな自分に課せられた唯一は、残された 家族の平穏だった。
 遺体の存在しない葬式で表情を殺すのに精一杯な自分を周囲の大人が如何に気味悪がろうと、後に犯人が処刑された事実を知っても……七年を経て、雛夜の死が社会的に決定付けられたとしても。何が起ころうと鴇夜の念頭には常に家族が存在した。
 そのなか、百合子の様子が確実におかしな方向へ傾いていったのは中学に入ってからだ。
 雛夜がいなくなってその美しい顔から笑顔が失われ、ただの人形と化してしまった百合子は、時折ヒステリックに暴れては突然ピタリと動きを止めてほろほろと涙を流した。雛夜の名前を呼ぶ声は小鳥のさえずりのように可憐で、年齢を感じさせぬ容貌は年月経ても変化が見られない。まるで悲劇に明け暮れる童話のお姫様のようだった。そんな彼女を見捨てずにいてくれる黒崎家の二人には感謝しても足りない。
「鴇夜、雛夜はどこにいるの? 私の雛夜はどこに行ってしまったの?」
「母さん、雛夜はいない。僕たちの目の届かない場所に行ってしまったんだよ」
「雛夜、どこにいるのっ? 母さんに顔を見せてちょうだい!」
 俗世から徐々に遠ざかり、夢の世界を漂う母は、自分にとって不都合な内容は耳を貸さないようになっていった。再婚するまで一人で双子を養ってきた気丈さはどこにもなく、儚く脆く……どこか遠くを見遣る眼差しは虚ろで、その心は折れる寸前まで追い詰められていたのだろう。
 家族全員が百合子を精神科に連れて行くことを渋っていたことが仇となり、あの出来事が生じた。
 鴇夜が中学三年の時、帰宅途中の大通りで、見るはずのない人物が目に入った。
 どれだけ説得しても暗い家に閉じこもっていた百合子が、青白い肌を照らして立っていた。
 豊かな黒髪はゆるやかなカーブを描いて乱れ、生気を感じさせない顔は幽霊のように色がない。その身は骨と皮となり、しかしそんな凄惨な有様であるのに、鴇夜にとってどこの誰よりも彼女は美しく映った。美人薄命、という不吉な単語が脳裏を過ぎった。
 交差点の向かい側に佇む百合子は、人の群れの中で一層か細く映る。目が離せなかった。声も出なかった。通常の母の錯乱を知っていたのに、行動を制限されたかのように硬直していた。
 その時胸のうちに込み上げたものは、今振り返ってみると頑なな恐怖心だったのかもしれない。百合子の異変が、変化が、交わりを阻む車道が現在の二人の距離を表しているようで、届かない距離に及び腰になっていた。
 こういうときこそ何でもいい、声を張り上げたりとほんの些細なことでも行動すべきだったのに。誰かが止める暇もなく、道路に飛び出した百合子が軽自動車にはねられる瞬間まで――人形のように固まっていたのだ。
「っ母さん!」
 すべてが終わった頃になってようやく、鴇夜は事態が最悪の展開を迎えたことを悟った。
 当然場は騒然となった。鴇夜は押し寄せる人ごみを掻き分け、横たわる母を傍らで膝をついた。
「ぁ、あう、う……」
 生命を維持する液体が彼女を中心にみるみる広がっていき、灰色の地面を赤黒く染めていく。投げ出された四肢があらぬ方角に曲がり、こちらに傾けた表情に、鴇夜は打ちのめされる思いだった。
 百合子は笑っていた。焦点の結ばない瞳を細めて心底幸せそうに、 ここ数年目にすることのなかった微笑を浮かべていた。喉から手が出るほど望んでいたものは、決して望んでいない形で叶えられたのだ。
 鴇夜は喉奥からせりあがるすえた熱い塊を必死で堪えた。嗅ぎ慣れない血の臭いに酔いそうだった。
 その後、誰かが呼んだ救急車が来たことで周囲はなんとか収拾を見せ、鴇夜は自分が百合子の息子であることを伝え同伴した。病院に到着しすぐさま手術室に運ばれ、厚い扉が閉じられると同時に上のプレートが明かりを点す。照らされる扉の奥で母の生死が決定付けられ、しかし鴇夜はそれを知りながら扉の傍らにある椅子で待つことしか出来ない。絶望が駆け巡った。
 茫然自失とはこのことだ。どれだけの時間が過ぎたかわからない、いつの間にか湊と秋人が駆けつけてきていた。あまりに酷い顔色をした鴇夜を「大丈夫だから」と繰り返し労わってきたけれど、なんの気休めにもならなかった。
 結局のところ、鴇夜は家族を守れなかったのだ。あれだけ近くにいながら手を伸ばすことすらせず、命を散らそうとする瞬間を目の当たりにした。
 これ以上ないくらい惨めで、不甲斐なくて、情けない……目尻から涙が滲み出た。取り返しのつかない大事なものが、こんなに呆気なくこの手から零れていくなんて、雛夜の時ですら思いもよらなかった。
 ヒナ。雛夜。お前が帰ってくるまで頑張るって決めたのにこのざまだ。
 何年経とうと鴇夜は鴇夜だった。雛夜の存在こそが鴇夜にとっても、百合子にとっても、言葉に言い表せないぐらい大切だったのだ。
 長年凍らせてきた感情の波が、一気にせきを切って溢れ出す。鴇夜は泣いた。声を押し殺して、俯せた顔を隠しもせず、涙した。





 
鴇夜は授業を終えて、直接病院に向かった。
 着いてからすぐに、百合子を尋ねる前に事情を知る看護婦に頼み更衣室を借り、あらかじめ用意していた服に着替え直す。鏡越しのチェックも怠らず、服のどこにも皺がないか確かめた後、後ろで括っていた髪を下ろして念入りにブラシで梳かす。偶然知り合いに出くわして自分だと見破られても困るので、女の子らしい柔らかみが増すように薄化粧も施した。
 何十回と繰り返した行為だ。そこらの女より手早く綺麗に仕上がっている自信がある。
 そして最後に鏡に映る自分に向かって作り笑顔を浮かべ、この姿の時は鴇夜ではなく雛夜なのだと軽い暗示をかけた。実際のところ、これは単なるおまじないに過ぎず、したところで効果を期待しているわけじゃない。女という生き物を観察し研究する鴇夜は、根本には男の性を宿すけれど、ニューハーフ並みにおしとやかに振舞うぐらいならわけないからだ。
 今の鴇夜は――瞳の色彩は日本人の中では異質だが、他はどこから見ても普通の女子高生そのものだった。
 典型的な紺色のスカートから、濃紅色のリボンを胸元に結んだ上着まで、父の友人の娘から譲り受けた古着らしいが、何度着ても見事にサイズが合っている。いくら鴇夜が細身だといっても、こうまで違和感がないと男としてどうかと思わなくもない。とはいっても、そんな矜持は些細なことだけれども。
 準備を終え、詰襟を鞄に仕舞いこんで部屋を出る。
「鴇夜君?」
 と、数歩進んだところで先の曲がり角から顔馴染みの医者と顔を合わせた。
 彼の動揺を表す癖なのか、野暮ったい眼鏡を左手の人差し指で押し上げる仕草を会うたびに見かける。精神・神経科医の樋口は、即答しない態度を不安に感じたのか、忙しなく視線を彷徨わせた。
「ええと、鴇夜君、だよね?……もしかして違った?」
「いえ、合ってますよ」
 あまりの挙動不審ぶりについ悪戯心が芽生えただけだ。にっこり微笑みかけると、樋口はあからさまに安堵に胸を撫で下ろした。
「そうだよね、よかったぁ……その格好の時は何度見ても君が男の子だなんて信じられなくて、つい毎回確認してしまうんだ。ごめんね」
 樋口は百合子の長期入院を勧めただけでなく、その後多くの患者が来る中でも親身に接してくれる、鴇夜達にとって良い医者の部類に入る人物だ。線の細い見目から性格まで、白衣を着ていなければどう見ても頼りない中年にしか見えないけれど、時間のある限りじっくり腰を据えて患者と向き合うひたむきさはこのような大型病院では珍しく、とても好感を持てる。鴇夜もそのうちの一人だ。
「気にしてませんよ。むしろ男の目も誤魔化せるってことは、母さんにもバレないって確信が持てるわけですし。成長期らしい成長期が未だに来ていないのが怖いところですけどね」
「鴇夜君は黒崎さんのお見舞いに来たのかい?」
「そうです。もしかして今から診察の時間だったりします?」
「いや、先程終わったよ。今日のリハビリも含めてね。そろそろ病室に戻っている頃だと思う」
 百合子は手術の結果、命を繋ぎ止めることは出来たが、その代償として下肢の機能が働かなくなり、そして重度の記憶障害となった。二つの後遺症のうち前者はリハビリ次第では回復の見込みがあるけれど、後者は心因性の関係に重点がおかれ、治療は困難らしい。
 百合子は記憶錯誤による偽りの記憶……すなわち「雛夜が生きている」という事実を自身で植えつけてしまったのだ。
 以前の百合子の状態は雛夜がネックになっていたことを黒崎家全員がよく知っていたので、だからこそ今後百合子に対してどう接するべきか検討すべく、樋口の話を踏まえて長く話し合った。
 鴇夜はその話を聞いた時点で既に決めていた……雛夜になりきり母を欺こうと。
 もちろん全員が反対した。そんな無茶苦茶な要求を呑めるわけもなく、いつかボロが出ると大人達は諭した。しかし鴇夜の決意は固く、それなら、と続けた。
 ――母さんが心身共に安定した状態だと確信するそのときまで演じてみせる。
 事故で不安定な母に真実を告げることは決して得策ではないと反論し、せめて自分が誤魔化しきれない時が来るまで彼女の望むままの世界を作ってやろうと告げた。如何に歪なやり方だろうと、この選択が現地点での最善策だと信じて疑わなかったし、今もその考えは変わらない。
「じゃあ会いに行っても大丈夫ですね」
「鴇夜君」
「はい?」
 樋口は何かを躊躇する気配を見せ、鴇夜に注ぐ瞳をほんの一瞬揺らした。それに気付かない鴇夜ではない。
「なんですか樋口先生。はっきり言ってくださらないと気になっちゃうじゃないですか」
「ああうん、そうだね……黒崎さんを見舞った後に神経・精神科に寄ってくれないかな。少しばかり話がしたいんだ。今日が駄目なら空いている日程を教えてほしい」
 樋口の頼みのほとんどが百合子関連だと知っていたので、鴇夜はあっさりと首を縦に振った。そのまま左手に嵌めた腕時計に視線を落とす。
「わかりました。何時に行けばいいのかわからないので……そうですね、今から一時間後に訪ねていいですか?」
「うん、じゃあそのときに時間を空けておくよ。それじゃあ、またあとで」
 くすんだリノリ ウムの廊下を足早に去っていく、男にしては小柄な背中を見送る。
 樋口のように赤の他人と真摯に向き合う姿勢を、尊敬はするけれど羨んだことはない。鴇夜の視界はひどく狭く、たった二本の腕では黒崎家の皆を守ることで精一杯で、平等という言葉など自分の辞書にはないに等しいからだ。
 女装で母を騙すだけでなく、家族の平穏を保つためならば他の物を投げ捨てることに躊躇などなく……そこには正常な思考が宿っているのだろうか。
 鴇夜はこの格好になるたびに、高々とそびえる氷山の如く冷たく凍る感情を確認し、皮肉らずにはいられなかった。
 そしてそんな自分を揺るがす程の何かが起こるような予感を樋口の態度から鋭く嗅ぎ取り、一抹の不安が胸を過ぎらずにはいられなかった。

 小説TOP / Non-clock WorldTOP / /