Round-T/004


 小ぢんまりとした個室は、年数を重ねただけくすんだ白が染み付いて全体的に薄暗い印象を抱かせるが、カーテンの開いた窓から零れる暖かな日差しが部屋を明るく照らし出している。中央には百合子の定位置であるパイプベッドが置かれ、その他に着替えなど必要最低限の物が整頓されているだけで、長期入院する身にしては質素すぎる空間だ。僅かに開かれた窓の隙間からは穏やかな風が滑り込み、カーテンがはたはた揺れている。
「……いない?」
 そこに訪れた鴇夜は、人の気配らしき影も気配もないことを疑問に思い、一度辺りを見渡した後首を捻った。
 車椅子がベッド脇に置かれていることから、樋口の言う通り百合子は一度戻ってきてはいるのだろう。リハビリをしているとはいえ、時折その成果を確認してきた鴇夜としては、ここに車椅子がある時点で何かがおかしいと疑念が生じる。一人で出歩くにはまだまだ大変なはずなのに、彼女はどこに行ったのだろう。
 とりあえずこの部屋周辺を中心に捜索すべく爪先を転換させる。と、ちょうど良いタイミングで真ん前の扉が開かれた。
「あら、雛夜ちゃんじゃない。黒崎さん、雛夜ちゃんですよ」
 看護婦に支えられているにしても、緑色のスリッパを履いた足はしっかりと床を踏みしめて立っている。鴇夜は唖然としてそれを眺めた。
 百合子は、棒切れのように細い二本の足を震えさせながらも、確かにその場に佇んでいた。
「母さん……」
「雛夜、ごめんね。話はベッドに戻ってからでいいかしら。さすがに長時間歩くのは辛いの」
「あ、うん」
 立ち尽くす鴇夜の脇を通り過ぎ、ベッドに腰掛けて人心地ついたとばかりに吐息をつく百合子は、いつになく表情が明るく生気に満ちていた。
「雛夜、今日は学校帰りに来てくれたのね」
「ああうん……あの、母さん。車椅子使ってないみたいだけど大丈夫な……のですか?」
 動揺からか、いつもの丁寧語が崩れそうになり、慌てて言葉を取り繕う。
「ああ……」
 幸い百合子は鴇夜の異変に気付かなかったらしく、降ろした自分の生足を撫でながら、くすりと喉を鳴らす。患者服から伸びた細い手足はあまりの白さに血管が浮き出て、どこかしら卑猥な部分に映りつい目を逸らしてしまう。
「皆に黙ってもらっていたのだけど、大分前から私、結構歩けるようになっていたの。時間があれば歩いてみたりしてね」
「黒崎さんたら元気になりはじめた頃からあたし達に頼んで今みたいに歩行の練習を重ねてたんですよ。一人で歩けるようになるまで内緒にして驚かそうとしていたみたいでしたけど」
 もうばれちゃいましたね、と悪戯がばれた子供達が笑いあうような一見微笑ましい光景も、鴇夜にとってはそれどころではない。かなりの衝撃だった。
 確かにここ最近、以前の明るさを取り戻しつつあるとは思っていた。元より憔悴して病みきっていたため、事故の後は話しかけてもろくな反応をせず、日がな一日虚空を見つめて過ごしていたけれど、今ではその面影はほとんど残っていない。
 本来ならば、喜んでいいところなのだろう。それなのに鴇夜を襲ったのは決して心穏やかでない混乱だった。
「そう、なんですか。というか、これだけでも十分驚きましたよ……」
「雛夜以外そうそうお見舞いに来てくれないんだもの。みんなが来てくれた時にちょっとでも元気になったことを見せてあげたくて。特に鴇夜ったら顔も見せに来ないのよ? お母さんすごく寂しい」
 息が詰まりそうになるも、ぐっと堪えて苦渋に満ちた表情を作る。
「……ええ、トキちゃんは何度一緒にお見舞いに行こうと言っても聞いてくれなくて。多分顔を見せるのが恥ずかしいんだと思います。ほら、お年頃ですし」
「男の子って難しいわねえ」
 本当ならば鴇夜はこの人の目の前にいるはずなのに、こうして母からその名を聞くと、まるで自分が自分でないような奇妙な錯覚を覚える。
 ならばここにいる自分は一体何者なのだろう……鴇夜は半ば無理矢理思考をシャットダウンした。これ以上考えると、更なる息苦しさに襲われそうだ。
「それじゃ黒崎さん、あたしはこれから仕事があるから行きますね。何かありましたらナースコールを鳴らしてください」
「わかりました」
 付き添いの看護婦と視線が合い互いにお辞儀を交わす。百合子は去る直前にその背中に向かってありがとう、と声をかけた。対して看護婦は二度目のお辞儀をして扉を閉めた。
 その後はいつもと変わらぬ展開だった。最近あった出来事を話題に会話が弾み、あっという間に時間が過ぎていく。
 時計を見てそろそろ樋口との約束の時間が差し迫っていることを確認し、鴇夜はパイプ椅子から腰を上げようとした時、百合子が「そういえばね」と言葉を紡いだ。
「何ですか? 母さん」
「雛夜、私ここ最近おかしな夢を見るのよ」
「夢、ですか?」
「そう、夢」
 途端、百合子は笑みを消し、どこか遠くを見るような眼差しになった。
「家族の皆でどこかに出かける夢。そうじゃなくても全員で何かする夢。だけどね、そこにいつも一人だけ人数が足りないの」
 どくん、と心臓が大きく波打った。
「鴇夜か雛夜のどちらかがいなくて、けど私はそれを疑問にも感じなくて……本当におかしな夢よね。樋口先生にその話をした時はとても真剣な顔をなされたけど、実際は二人共存在するからおかしなことなんて何ひとつないのに」
「それは……確かに変ですね」
「でしょう?」
 百合子はさも可笑しげに笑っているが、鴇夜は笑顔を崩さないことで精一杯だった。
 この人はわかっていない。自分が今、この仮初の世界を壊す重大な布石を打ったことを、これっぽっちも理解していないのだ。ただの夢というには見逃せない、微かな変化が百合子の身に起こっている。
 鴇夜は樋口がこの事実をどう捉えたのか、今後の面会で今までの状況が一変するような何かが伝えられるのだと、今度こそ強い確信を覚えたのだった。






 幾つもの連なる病棟と隣接して建てられた新棟三階に神経・精神科は存在する。部屋の前には二列に渡り椅子が並んでおり、午前の外来診療の時間がとうに過ぎているからか患者の姿はそれほど多くない。
 鴇夜は強張る顔に手をあてながらその扉の前まで歩を進め、正面に提示されたプレートを暫し見つめた後、きゅっと唇と引き結びノックした。
「失礼します、樋口先生はいるでしょうか」
 扉をなるべく静かに開いて顔を覗かせる。仕切りの向こうに人影を確認して声をかけると「鴇夜君?」と返事が返ってきた。
 忙しなく席を立つ音がして、仕切りの横から樋口が顔を出す。樋口は鴇夜の姿を視界に入れると、柔らかな笑みで迎え入れた。
「いらっしゃい鴇夜君。時間通りだね」
「お忙しい中時間をとらせてしまってすみません」
「僕が君に時間を取らせたんだから、悪いというのならこちらの方だよ。さ、中に入って座って」
「はい」
 鴇夜は扉を閉じて、仕切りの向こうに足を踏み入れる。狭い一室には樋口以外見当たらず、白いデスクにはPCとボックスに分厚い本が数冊、そして患者のカルテらしき書類が何枚も重ねて置かれている。窓際には観葉植物が一つ、青々とし緑色を茂らせて、窓の隙間から差し込む日光をいっぱいに浴びていた。
 鴇夜は樋口の向かいの椅子に腰を下ろし「それで」と間髪入れず問うた。先刻から百合子の穏やかな表情が頭にちらつき、妙な胸騒ぎに襲われてどうも落ち着かないのだ。瞼にかかる滑らかな黒髪を指で払い、伏せた目線をそっと上げた。
「……お話というのは、母のことですよね」
 疑問でなく確認の意に樋口は片眉を吊り上げる。数泊を置いた後、「そうだよ」とあっさりと肯定を示した。
「その様子だと、黒崎さんの夢……現実に即した話は聞いたようだね」
「はい。あの、……実際のところこれは良い傾向だと捉えてもいいんでしょうか? 母は長いこと記憶障害を患っていますし、こういう心の病気に治療を施したところで完治する可能性は、なにぶん精神に関わることですし低いかと。……正直なところ、障害が残ろうとも母が少しでも元気になるならそれでいいと思ってたんです。それが、その」
「夢の話を聞いた時、僕もまさかとは思ったよ」
「……はい」
 本当の本当に、まさかの展開だ。
 このままずっと、雛夜の姿で誤魔化し続けるにも限界があることはとうの昔に知っていた。だからこの予想外な事態はむしろ喜ばしいことで、百合子が雛夜の存在が偽者であることを認識することになんの不都合もない。
 それなのに鴇夜は不可思議な焦燥に駆られていた。胸の奥がじくじくと甚振るような痛みを訴え、知らず眉根を寄せる。
「黒崎さんの状態は以前話したように、記憶錯誤と呼ばれているものだ。記憶機能は主に三つの過程により維持されていて、記銘、保持、追想のうち最後の追想に障害がある場合、いくつか見られる障害の一つに記憶錯誤がある。彼の精神障害は統合失調症、その他の精神障害の際に生じるものだね。そして夢というのは、ノンレム、レムのうち、後者の睡眠時に起こる現象で、夢を見る理由については様々な説がある。主に二つ、一つは無意味な情報を捨て去る際に、もう一つは必要な情報を忘れないようにする活動の際に感じられる現象といわれている。とはいっても、夢のメカニズムは事例や説は多く存在するけれど、確定したものは特にないから難しいけどね」
 そこで一息を入れて、樋口は野暮ったい眼鏡の奥の瞳を薄く細める。鴇夜は顎に指をあてながら、夢に関しての浅知恵を脳内から探り出した。
「夢といえば、希望や願望の現れだという話は聞いた覚えがあります。夢物語とかも夢という単語がつくからにはその人にとって非現実的なもので、手の届かない空想話と同じものかと。それに覚醒したら夢に関する記憶って大抵が薄れていくじゃないですか。けれど母の言う夢の場合、決して希望でも願望でもない、むしろ反対に属するものだと思うんですよね。覚えていることに関しては、あまりに衝撃的だったからだと捉えられますけど」
「確かに。けれど夢にはもうひとつ、こういう説があるんだ」
 樋口は鴇夜の前でおもむろに人差し指を立てた。
「――悩んでいた、考えていた事柄が影響するケース」
「かんがえて、いた……?」
「夢の心理学的分析によれば、そういうこともあると言われている。夢は視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、の全ての感覚において何らかの刺激に影響があり、ただし痛覚に関してはほとんどの事例で感じないという結果が出ている。人は意識がある時、どうしても力が入ってしまうものだしね。けれど寝ている時は通常時に生じる抑圧から解放され、だからこそ敏感に刺激を受け、それが顕著に表れる。もしかしたら黒崎さんの夢はそれに当て嵌まるのかもしれない。違和感という、ね」
 違和感。
 百合子の周囲で違和感という単語はいくらでも当て嵌まる。もしかしたら百合子は表には出さず、それとも無意識下に何らかを感じ取っているのかもしれない。
「近頃の黒崎さんはやけに活発的だ。僕は以前の彼女を知らないから何とも言えないけど、なんだか焦っているように感じて、何度も落ち着くように言い含めたよ」
「先程車椅子を利用せずに歩いているところに出くわしました。いつ頃からですか?」
「知ってしまったのか。あれは一応は僕の管轄外だからそう深くは知らないけど……そうだね、半年以上前のことだと記憶にある」
 鴇夜は絶句した。
 半年以上前といえば、結構な月日が経過している。鴇夜の訪れる時間を計るだけで、後の二人は見舞いに来ることがそうないから、隠し通すことは容易だったに違いない。知られたところで強く咎められるような出来事ではなく、無理をしなければリハビリは良好だと捉えられなくもないので、病院側も百合子の心理状態を考慮に入れて悪戯心に乗ってみせたのだろう。由々しき事態に陥ればこちらに連絡がいったはずで、すなわち何事も起こらなかったとみえる。
「これらのことを踏まえて、僕は黒崎家に一つの提案をしたい。後で君から家族に知らせてもらい、全員にもう一度告げるつもりだけどね」
「提案……?」
 嫌な予感がした。
 心臓を通過する血液が逆流するかの如くどくどくと激しい音をたてて、苦しいぐらいの負荷が襲い膝に置かれた拳に力が入る。
 樋口は正面で険しい面持ちを見せる鴇夜に、静かな口調で告げた。
「時期を見計らって、真実を知らせると約束したね」
 ――ああ、駄目だ。
 鴇夜は次に何を言われるのか悟り、きつく瞼を閉じた。
「黒崎百合子さんに、黒崎雛夜という人物がとうの昔にいないことを伝えるべきだと、今がその時期だと僕は見ているんだ」
 仮初の世界が壊されるスイッチが、今ここで押されてしまった。

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