Roun-dT/005


 理性的に判断するならば、時期尚早どころか、もはや勘付いているかいないかは関係なく、その傾向が見られる内に伝えた方が話を呑み込みやすいと考えられた。しかし樋口の提案を、鴇夜はどうしても頷けなかった。理性を超える激しい感情の波が思考を麻痺させ、ただただ現状に身を任せることしか出来ない。
 とはいえ、行動は一貫して通常通り帰宅すべく動いていた。鴇夜は最寄り駅を降りて改札口を抜けると、まずはじめに手帳を開き今後の予定の確認をする。
 ほとんど家に帰ってこない男二人と暮らす以上、一軒家を任せられた立場は否応なく家事を習慣化させられる。記憶に刻んだとしても、時折忘れてしまうのは致し方なく、よって電車を降りて手帳を見るのは癖と化していた。本日の欄には、母の見舞いの他、特に何も書かれておらず、後は帰るだけだと思うと少しばかりほっとする。
 駅周辺はファミレスやゲーセン、そして風俗店などが多く立ち並び、女が夜中に一人出歩くにはなかなかに物騒な場所だ。太陽が沈みきっていない夕刻の中、夜の住民達が密やかに息づいて闇に染まる頃合を待っていることを鴇夜は知っている。早々に立ち去るべく、出歩く人の群れをすり抜ける。今の状態で誰かと出くわしてしまったら冷静に対処出来ない確信があった。
 百合子が雛夜の不在を知る。鴇夜達が隠していた真実が暴かれる。それを考えるだけで背筋に冷たいものが走るのはどうしてだろうか。鴇夜は今日の出来事を想起し、その時強く訴えてきた胸元の痛みを不意に思い出し、服の上からその部分を撫で摩る。そこであることに気付いた。
 鴇夜は未だに女装したまま――セーラー服の格好をしていた。
 胸のリボンに触れながらここまで、と愕然とした。ここまで頭が回らなくなるとは……鴇夜の口許に苦々しげな笑みが生じた。動揺の度合いが思いのほか大きすぎて、些細な配慮はすっかり抜け落ちていた。
 百合子の周囲を構成する偽りが崩されることを、本来ならば歓迎するべきなのに、その場面を避けたいと考えてしまう自分は皆と矛盾している。
 憔悴しきり壊れてしまった過去の母を呼び起こしたくないからか。その可能性も無きにしも非ず、乗り越えてくれると確信を持って信じられない自分がいるのも本音だ。しかしその理由だけではしっくりせず、鴇夜は考えに囚われとうとう足を止める。
 それならば、自分は何が一番嫌だと感じているのだろうか。
「ヒナ……!」
 ――雛夜の存在が百合子の中で亡き者にされてしまうことだ。
 鴇夜は不意に浮上した己の思いに、大きく目を見開いた。
 と同時に背後から右腕を捕まれ反射的に振り返る。その先に映る人物を捉えた青灰色の瞳がゆらりと揺れた。
「あ、きと」
 秋人が肩で荒い息をしながら、こちらを見下ろしていた。互いの視線が絡まり、秋人は鴇夜の口から洩れ出た呟きに瞠目し、そして失望に似た暗い影がその瞳を過ぎる。
「……トキか」
 苦虫が噛み潰したような声音で名前を呼ばれておずおずと頷く。
「秋人、お前」
「今日も見舞い行ってきたんだな」
「うん、あの秋人さっき」
 ――雛夜の名前を呼ばなかったか?
 その問いを今尋ねるには酷だと思い、咄嗟に口を噤む。
 そっぽを向くその横顔は様々な感情が入り混じる複雑なもので、悔いているのが見て取れる。
 秋人が未だ雛夜の存在に強く囚われていることを知ったのはつい最近だ。呼吸を整えていく様を見て、どこから自分を雛夜と勘違いして追いかけてきたのだろうと、あまりの必死ぶりを哀れに感じる。そしてそれは自分にも当て嵌まるもので、思わず自嘲の響きが零れ落ちた。
 秋人の叫びをきっかけに浮かんだ思いを、鴇夜は否定出来なかった。秋人がこうして雛夜を探し求める態度を、少なからず喜んでいる自分がいることに気付いてしまったのだから。
「うお〜? マジでお兄さんのそっくりさんだ」
 と、聞き覚えのあるのんびりした口調の方角に視線を投げる。秋人の後ろから飯島が少し驚いた様子で駆け足気味に現れた。いきなりの登場に困惑する暇も与えず、「聞いてよそっくりさん」と不満げに腕を組み鼻をつんと逸らす。
「オレは飯島敦、あっちゃんって呼んでね。つーかヒドイんだよコイツ〜! コイツったら駅で君を目にした途端、目の色変えて追いかけたんだよ? 探しても見つかんないしあきらめろって言うのに聞かなくてさぁ、こうして置いてかれたわけだし。ま、お兄さんにそっくりだしかわゆいから納得しちゃうけどぉ」
「っ飯島だまれ」
「なんで、ナンパじゃねぇの? あ、それとも知り合い? お兄さんにそっくりだもんね、つかうりふたつ。ドッペルゲンガーみて〜スッゲーよなぁ」
 しみじみと感心する飯島は目の前の少女が鴇夜本人とはまったく気付いていないようだ。化粧まで施して女装している現在の姿と、優等生で通っている自分のイメージが重ならないとはいっても、瞳の色を見た上でこうまで疑問の余地すらない辺りは、飯島の性格故だろう。どちらにせよ幸運なことで、鴇夜は誤魔化しきるべく外面を取り繕った。
「……あの、お兄さんというのは一体誰ですか? それと、あなたがたが私に声をかけた理由は?」
「あ〜コイツ、黒崎秋人っていうんだけど、そのお兄さんがまったえらい美人でさ〜。とはいってもヤロウだし、キミの方が断然可愛いんだけどねっ。そんなキミとぜひお近づきになりたくてね〜?」
「ちげぇよ」
 軽薄な笑みを浮かべながら詰め寄ろうとする飯島を避ける前に、秋人が二人の間に立ち塞がる。とうの昔の腕を解放され、鴇夜の前には自分よりも広い背中がある。
「オレがコイツを探してたのは知り合いと勘違いしたからだ。だからもう用はない」
「ええ〜? けどこんな可愛い子滅多にいねぇじゃん、せめてメルアドぐらい」
「うぜぇ、もう行くぞ」
 女を巡って言い争う二人の姿は、元より派手めな見目をしているせいか、風俗の通り道とはいえ異様に目立つ。秋人が渋る飯島を言いくるめるまでの間、鴇夜はそれとなく周囲に目を配り、立ち去るタイミングを計っていた。しかし脳裏をちらつく考えに再び引き摺られそうになり、今はその時でないとかぶりを振るけれど、冷静さを欠けた状態では抑制しきれず唇を噛み締める。
 ――雛夜がいないことを、誰よりも認めていないのは僕自身だ。
 改めて悟った思いに胸が打ち震えた。
 幼き頃、家族を守ると誓いを立てたあのときよりも、苛烈で、どす黒く、否定という単語で括りきれない拒絶に近い感情がここにある。
 年月を積み重ねるに比して雛夜という少女の存在が周囲から希薄となっていくことへの明白な恐怖。映像や写真などでは補えない記憶の不確かさが、移ろう時の流れに逆らえず次々に起こる目新しい出来事が、徐々に彼女の輪郭をぼかしていき最終的には無に帰す。
 憎悪を誤魔化し殺意を押し殺し、家族を優先することで道を作った鴇夜には、前提条件として雛夜が必要不可欠だった。
 年を追うごとに何事に対しても冷めていく思考と、自分という人間が生存していることへの疑問。虚無に浸される人間味のないこれまでの日々は、彼女がいなかったからに他ならない。
 そのなか、鴇夜の家族だけが雛夜を忘れずにいてくれる。雛夜を必要としてくれる。百合子は壊れ、秋人は取り乱し、湊は穏やかな顔の裏で悲しみに暮れている。
 それらを愛しく思わずにいられるわけがなく――いつしか鴇夜の支えとなっていたのだ。
 それももうじき終わってしまう。百合子が真実を知り現実に踏み込むことで、確実な変化が生じてしまう。
 ――皆が過去から、雛夜から解放されてしまう。
「嫌だ……」
 口を突いて出た拒絶は低く掠れて、限りなく絶望に満ちていた。
 何か。何か手段はないのか。家族の誰もが、雛夜を心に残しておく手段がどこかにないか。
「――オイ、どうした?」
 鴇夜の囁きが届いたらしく、飯島を宥める側に回っていた秋人が怪訝げに顔を向ける。のろのろと頭を上げた鴇夜は、秋人に焦点を合わせることなく、澱みきった瞳を遠くへと飛ばした。
 夕暮れを過ぎて徐々に闇に染まる空の下、様々な人種が赤の他人として平行線を辿り擦れ違う街中を、まるでモノクロ世界を見ているかのような無機質な心地を味わいながらぼんやりと眺める。自分を構成する狭い世界の終焉を告げられ、自暴自棄になっているともいえる。
 しかしそれも、ある一つの影に目が留まることで色づいたように思えた。

 歌が聞こえた。
 感情の念を一切遮断した、透明感溢れる純粋に美しい旋律と共に、その人物を中心に光の網がじわりじわりと緩やかな速度で解き放たれる。店頭の電気や奇術なんかとはわけが違う、闇を切り裂く混じり気のない光線がうねりをあげて、この場を支配するが如く広がっていく光景はまさにファンタジーそのものだ。
 まして鴇夜の視界が捉えた人物は、現実世界ではあまりに異端すぎた。
 ビスクドールのような精巧な面差しを持つ少女が、瞼を閉じて淡々とひとつの音色を奏でていた。
 一本一本が繊細な絹糸のような真白い髪が、根元から先端まで柔らかなウェーブを描いて膝下で揺れる。その服装もまた白一色で、フリルをふんだんに使われた、いわばゴスロリめいた格好をしており、もしこれが通常の場だったならば引いていたに違いない。
 それなのに鴇夜は何故か恐怖を覚えることなく安堵してしまった。胸のうちを占める息苦しさが浄化されていくような、不可思議な心地を味わう。
 雑然とした街の音は、圧倒的な歌の響きに掻き消され、誰も少女の姿が見えていないのか、彼女の前を颯爽と通り過ぎていく。少女と彼等の間をなんらかの力が作用して隔絶されているらしく、けれど互いが存在することの可能なこの奇妙な空間を、既に鴇夜のいるべき場所とは別世界のように感じられた。
 その瞼がゆっくりと開かれ、血を塗りたくったような紅色の瞳がまっすぐに鴇夜を貫く。ふっくらとした小さな唇がふと歌うことを止めるも、少女の放つ輝きは衰えることなく螺旋を描く。
 二人の立つ距離は少なからず十メートル以上離れているというのに少女は言葉を紡ぐ。その声音はあまりに小さな囁きで、本来ならば届くはずがないのに、このとき鴇夜の耳にははっきりと聞こえた。
 ――願望を実現させる力が欲しくないですか。
 どこかの怪しげな宗教団体の誘いを受けているみたいだ、とひどく真っ当で間の抜けた感想を抱いて、両目をしばたたいた。

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