Roun-T/006


 光の渦がこの領域全体を占めていくのに比して、異質な空気もより濃厚になっていくのを、一般人であるはずの鴇夜でさえ敏感に感じ取る。音が反響するが如く歌声も耳鳴りがするぐらい勢いに乗じ、思わず耳を押さえるけれど、その強大な威力にぴりぴりと肌が粟立つ。天上の闇は白い輝きに覆われ、時間という概念から引き剥がされていく感覚をひしと味わいながらも、鴇夜はただ見上げることしかできなかった。
「これ、なんなんだ……」
 ぽつりと、不意に頭上から掠れた声音を拾い上げて、はっと焦点をずらす。秋人が少女を凝視し、非現実な光景に唖然としていた。
 咄嗟に周囲を見渡す。
 秋人の他には誰もこの異常事態の中、変わりないことを確認し、真向かいに立つ飯島は、秋人の向かいで何やら喋っているような仕草をするだけでこちらの異変を微塵も察しておらず、その姿は壊れた録画映像を錯覚させる。自分と同じ生き物の気配を感じさせないその動きがなんだか可笑しくて、けれどこの場で笑う不謹慎さは弁えていたので表情を殺してやり過ごした。
 秋人のような張り巡らせる緊張感が鴇夜にはなかった。むしろいつになく肩の力が抜けているかもしれず、その根本的な理由に、波風立たぬ水辺のような平常心というよりも、ひどく他人事めいた冷淡さが支配する。
 秋人はぶつぶつとこの状況に対する混乱を零しては髪を振り乱して元々きつい面差しを更に歪める。これが通常の反応なのだろう。
 流石に哀れに思い呼びかけると、ようやく鴇夜の存在を思い出したらしく、途端に目を瞠った。
「ト、キ。トキ、は正気なのか……っ?」
「正気って。まあ正気だね」
 鴇夜が肯定を示すと、一人じゃないことを心底安堵したのか、秋人のつりあがる眦がほのかに緩んだ。
 その間にも、空を埋め尽くすどころか徐々に少女と自分達以外の影が霞んでいき、益々世界と隔絶していく様を目の当たりにする。
「トキ、これって一体なんなんだよ」
「僕にわかるはずがないだろう」
 不思議なことに、二人の声は歌声に掻き消されることなく会話を繋ぐことが可能だ。互いの顔を見合わせ、そして少女へと視線を戻す。
 放たれる旋律は、まるで中世に流通した宗教音楽のように、器楽を一切使用しない多様な歌い手のみによる賛美歌を浮かばせる。しかし実際、目の前にいるのはたった一人、風変わりな少女だけだ。
「なあ、トキってあの女と知り合いだったりすんの?」
「いきなり何? まあ、今回が初対面だね。というかあんな子とお近づきになってる自分が想像できないな」
「けどさっきからトキのこと、じっと見てる気がすんだけど」
 秋人の言う通り、鴇夜は一方から強い視線をその身に感じていた。
 ――願望を実現させる力が欲しくないですか。
 先刻届いた問いかけは、両側の距離を考えれば空耳と捉えてもおかしくないのに、確かに少女から発された言動だと察知する。
 秋人は少女から目を離さないまま、鴇夜の鞄を持つ反対の腕を取ると、鴇夜の耳元でそっと囁いた。
「トキ、とりあえずこの場から一刻も早く逃げよう」
 どこに逃げればなんてわかんねぇけど、とじりじりとあとずさる。
 街並も、踏みしめる地面でさえも光源に彩られて、既に逃げ場所を塞がれた状況に陥っているような気がしなくもなかったが、このまま留まっていても無意味だろう。しかし鴇夜の場合、どこに行き着くかもわからずむやみやたらに動き回るより腰を落ち着けて現状を把握した方が幾分安全なのではと考えた。
「なんで?」
 その意を口にしたつもりなのだが、圧倒的に言葉が足りなかったらしい。秋人は般若のような形相へと変貌し、「バカか!」と叫んだ。その際、唾が顔に飛んでつい袖口で拭う仕草をすると益々いきり立ち、拘束する腕の力が強められて思わず顔を顰めた。
「馬鹿って……僕はただ落ち着いて策を練った方がいいかなと思っただけなんだけど」
「テメェは落ち着きすぎだっこんな場所にいていい事なんてあるはずねぇだろうが!」
 怒鳴りついでに指差された先に佇む少女を見て、一寸置いてああそうかもしれない、とやけに鈍い脳の巡りの中、納得の声があがる。
 非現実的な出来事に直面したら、まずその大元から逃走を図るのは初歩の初歩すぎる行動範囲内で、逆にその側で居座るなんて自殺行為に等しい。秋人はそのことを憤っているのだろう。それでも鴇夜は慌てることもなく、おもむろに深く頷いた。
「そうだね。うん、行こうか」
「チッわかりゃあいんだよ」
 腕を引かれて前のめりになり、鴇夜は視線を地面に落とす。
「何して、」
「ストップ。ちょっと待って」
 わざとではない。不思議なことに、足がその場から一歩も動かなかった。
 愕然とした。慌てて遠くに視線を投げる。
 少女は相変わらず表情を無くした人形の面でこちらを見つめていた。
 赤く濡れた瞳が、ぞっとする禍々しい美しさをたたえて、魔眼の如き引力を放ちこの身体を縛り付けるかのような。
「……あ」
 唐突に理解した。
 秋人が何を恐れているのか、幾度視界に入れてもなんとも思わなかったおぞましいまでの違和感を、この時になってようやく芯の底から震え上がりこの身に実感した。鴇夜は冷水をぶっ掛けられたような心持ちになり、膝ががくがくと揺れて崩れ落ちてしまいそうなのを踏ん張るも、元々白い顔が奈落の底に落ちる勢いで青褪めた。
 愚鈍過ぎた思考回路が一気に冴え渡り、瞬時に警告の鐘が脳裏を過ぎるが、すべてが遅すぎた。人間としての本能が、これは自分達とは根本的に違う、決して相容れることのない圧倒的で暴力的で人を害する強靭的な力だと訴える。
 何故ここまで追い詰められなければ、これが自分達の身に降りかかる火の粉であると気付かなかったのだろう。むしろ姿を消した赤の他人の方が安全圏にいるとは思わなかったのか……思いもしなかった、と状況判断すらまともに下せなかった過去を省みて、隙間なく包み込む輝きの広がりに鴇夜は絶望した。
 しかし同時に喉奥から何か熱いものが込み上げて、引き攣った声が鴇夜の口から迸る。
「お、まえは……お前は何がしたいんだ」
 直接的で、けれど何よりも知りたい問いかけに対して、少女はまたもや同じ返答をする。
 ――あなたの願いを叶える力を私たちは持っています……欲しくはないですか……。
 どうやらこの不審な誘惑は秋人に聞こえない様子で、二人を交互に見遣り焦れったいとばかりに横で腕をぐいぐい引っ張ってくる。鴇夜の恐怖はいとも簡単に苛立ちに取って代わり、その手を思い切り振り払った。秋人はぽかんとした間抜け面を晒し、すぐに憤怒で顔を赤くした。
「っ何すんだ! つーか、いつまで待てばいいんだよ……っ」
「……足、が」
「あ?」
 鴇夜はスカートから飛び出た小鹿のようにすらりとした二本の足を見下ろし、自分の意思にぴくりとも反応しないことに歯噛みして言葉を濁らせる。
「足が、さ……動かないんだよ。それなのに、どうやって逃げろって?」
「は、こんな時に適当なウソ言うんじゃねぇよ!」
「嘘をついたところで僕になんのメリットがあるんだ!」
 滅多と喚くことのない鴇夜の叫びに、秋人は驚愕に目を見開く。鴇夜も同様に驚きに表情を染め、すぐさま申し訳なさげに「ごめん」と呟いた。そして躊躇するように長い睫毛を伏せ、数泊を経て言葉を続けた。
「そういうことだから……秋人だけでも逃げて」
 秋人から目線を逸らしたのは、自分も逃げたいと思う臆病な気持ちから背ける意も含まれている。
 鴇夜には不思議なぐらいに強い確信があった。
 少女が求めているのは、自分なのだと。
 秋人は巻き込まれただけのただの被害者だ。

「こうして僕達がのんびりしている間、あの子は何も行動を起こさなかった。何かをするつもりならとっくの昔にやっていたはずだ。だからきっと今なら……全体が光に覆われているみたいだけど、どこかに隙間みたいなところがあるのかもしれない」
 震えそうな声を気丈にも芯の通った強い口調で繕い、向かい合う強張った顔にしっかりと言い聞かせる。
 この推理は証拠も何もない単なる思い付きを説得の材料に用いているだけの一時凌ぎみたいなものだ。もし秋人が冷静ならばなんらかの反論が飛んだかもしれない。しかし本来直情型の性格が、この状況下でさらに火がついてまともに物を考えることを不可能にさせている。
 鴇夜の狙う目的はただ一つ、大切な弟の安全の確保だ。偽善でもなんでもなく、鴇夜の内側に秘める家族を守るという最優先事項が恐れを勝る自己満足に至ったに過ぎない。
「っけど、それならトキはどうなんだよっ?」
 案の定、秋人は可哀想なぐらいにうろたえて鴇夜の身を案じる言葉を吐いた。
 ここからが正念場だ。
 いかにして秋人を騙しきるか……鴇夜はぎこちなさを感じさせない、余裕すら窺える笑みを口許に浮かべた。
「秋人、僕は何も二人の内一人なら助かるかもれないなんてどこかの漫画にありそうなお約束展開を考えているわけじゃないよ。自己犠牲なんてごめんだしね。ただ、今この場で動けるのは秋人の他にいないんだ。それだけはわかるね?」
 秋人の肯定を見て取って話を続ける。
「このままこの場にいても意味がない、秋人の言う通りだ。共倒れするだけだろうしね。それならどうすればいい? 簡単だ、活路を開く道を探せばいい。だから秋人、僕を置いて逃げるふりをして探して。道を完全に断たれてしまう前に見つけてほしい。これは時間制限がかなり短いと予測される上に僕の安全は保障しきれないけど、今僕達が出来る最善の策だと思う」
 虚言を織り交ぜての論理立ては、秋人の働かない脳で処理しきるには多大な時間を要するだろう。追い立てるようにその肩を軽く叩くと、揺れる瞳が小柄な女子高生の姿を映し出した。それはもちろん鴇夜本人で、つい微苦笑が滲む。如何に見目が荒れようと、こういう素直さは昔と変わらず可愛らしい。
「……そうだ、オレがトキを運べばいいんじゃねぇ? そしたら一緒に逃げられるだろ」
「あのねえ」
 秋人の心中は察せられるが、溜息が勝手に零れた。
「僕も今はこんなナリをしてるけど秋人と同じ男だよ? 現代っ子の体力なんて高が知れてるんだから早く行きなさい」
 せめてもの抵抗をあっさりと棒に振り背中を押すと、秋人は渋々とだが「わかった」とようやく一応の納得を見せてのろのろと動き出した。未練がましくこちらに視線を投げる間、あまりに移動速度が遅いので手を振って早く行くようにジェスチャーすると、むっと反抗的な目付きをきかせて今度こそ走り去る。
 鴇夜はその背中がやけにあっさりと光の網を潜り抜けていくところを、確信を得ると共に安堵の入り混じる表情で見送った。
 やはり、と思った。秋人はこの件に置いて無関係の人間に属していたのだ。
 通常の世界に戻り理性を取り戻したその時、秋人は鴇夜の意図に気付くだろうか……気付かなくても怒りそうだ、と目許が緩みかけるもすぐに引き締める。そんな感傷めいたことは今することではない。
「――さて」
 これまでの一連の行動を無言で見逃して――いやこの場合、ご丁寧にも待っていてくれたのだろう少女に向き直り、鴇夜はその場から動くのを諦めて膝を折る。移動しなければ何をしても可能らしく、便利な能力だと内心皮肉げに嗤いながら乱暴に腰を落とし、スカートであることを気にせず胡坐を掻いた。硬いはずのアスファルトの感触すらせず、羽毛の枕に沈むような心地を堪能しつつ、膝に肘をついて頬杖をする。そして不敵な笑みを閃かせ、棒のように立ち尽くす少女を見据えた。
 本当は、怖い。
 人間らしい挙動を一切見せぬ機械めいた態度も、すべてを見透かしたような無感情な紅の双眸も、少女と繋ぐすべてが鴇夜の世界となんら関わりのないものばかりで、薄気味悪いとしか言い様がない。総身が怖気立つ中、無様に膝をつくような体勢にならないことだけがせめてもの救いだ。
 交差させた足の上に置かれた学生鞄を右手で弄びながら、先刻から感じていたことをまず口にする。
「そうだね。まず二人きりになったわけだし、その頭に響かせるような……テレパシーっていうのかな、よくわからないけど。それ、止めてほしい。喋るなら直接口で喋ってほしい、そっちの方が安心するから」
 こちらの要求を呑むこと自体危うく感じていたが、幸い少女は暫しの時間を置いて後こちらに移動しはじめた。一歩一歩距離を詰めるに比して鴇夜の全身を巡る緊張が高まり、どくんどくんと耳元で激しい心臓音が聞こえてくる。このまま正面を向いて対立したら、心臓発作で死んでしまうのではないかと馬鹿なことすら考えた。
 しかしそれも、目の先に立った少女がふわりと膝上のスカートをひらめかせて、ひどく可憐な動作で横座りしたことで一先ず収まった。
 ほんの一瞬のことなのに、今し方まで体温を感じさせなかった頑なな人形が柔らかな肉体を持つ人間に変化した様を見たような心持ちで、柄にもなく鴇夜は見蕩れてしまった。
「――これでよろしいですか」
 間近で見ると益々冷たい美貌が際立つも、淡い桜色の唇が、脳に響いた声音よりも幾分人間味の感じさせる柔らかさを備えて言葉を発する。おかげで多少の警戒心を残しながらも鴇夜を覆う強張りは徐々に抜け、首を大きく縦に振った。

 小説TOP / Non-clock WorldTOP / /