Round-T/007


 敵とみなす存在と対談するなど正気の沙汰ではないし、なかなかシュールな光景ではなかろうか。
 鴇夜はぼんやりと目前の少女を眺めながらそんな感想を抱きつつ、はじめに何を問うべきか頭を捻らせる。
 平安時代を浮かばせる異常に長い白髪を、地面につけるのは嫌らしく肩を伝い膝に流れ落ちるように右手で纏めている。病的な白さを保つ肌は雪のようにシミひとつなく、全体的に色素が抜け落ちた姿かたちをしているのに、やはり瞳の色だけは毒々しい彩りを宿して底知れぬ力を感じさせた。
 鴇夜はこれほど美しいと思う異性を、自分の母親以外に見たことがなかった。ただし少女の場合、日常から遠ざかる異端さが一際表に出ているけれど。
 そこでふと、あることを思い出し早速提案する。
「――そうだ、まず自己紹介をしよう。これから話をするのに、お前をどう呼べばいいかわからないしね」
 そう言うと、余程その言葉が意外だったのか少女は目をしばたたいた。その仕草だけで呆気なく少女の纏う硬質な空気が崩れ、年相応の反応を覗かせる。鴇夜は鞄に触れる手を止めて思わず見入るも、すぐに我に返り口早に言葉を紡いだ。
「僕は黒崎っていうんだ。お前は?」
「……私は、名前を持っていません」
「名前がない? そんなわけ……いや、常識は通じなさそうだしな。それなら普段どう呼ばれているの?」
「巫女という役職に就いているので、そのまま巫女様と呼ばれています」
 鴇夜の貧相な想像力では、神社のアルバイトで働く偽者しか思い浮かばない。鴇夜は眉間に皺を刻んでかぶりを振り、そのまま巫女様と呼ぶことにも抵抗を覚え「それなら」とまたもや提案した。
「巫女様もなんだし、よければ適当に思いついた名前で呼ばせてもらってもいい?」
 向こうから息を呑む気配がしてそろそろと目線を上げる。相変わらずその表情筋は鉄仮面の如く動かないけれど、あれほど脅威に感じた神懸かった空気が僅かに薄れているように感じた。少女は静々とお辞儀した。
「それでいいです、お願いします」
「う、ん。わかった……そうだな」
 先刻から微弱ながらおかしな態度をとる少女を、若干不思議に思いながらもいくつか候補を脳内で挙げてみる。
 が、鴇夜は途中で思考を止めて匙を投げた。
 ネーミングセンスの問題云々よりも、名付け親になることで少女との繋がりを確かなものにしてしまう可能性を今更気付いたのだ。自分で考えた名前ではペットに名を付ける時のような愛着心を持ってしまいそうで、想像するだけで腹の奥底に重たい塵が沈殿していく。鴇夜は頬杖したまま深い溜息をついた。
「――駄目だ、名前なんて思いつかない。そのまんまウサギでいいんじゃないかな」
「ウサギ、ですか?」
「そう、ウサギ。白い髪に赤い目、見た感じそのままじゃない。それでいいならすぐにでも話をはじめよう」
 少女――ウサギは数泊置いた後、再度頭を垂れて了承した。その姿は自然体でありながら物腰柔らかで姿勢が良く、恐怖心からか大きく映っていた少女が本当は小柄であることに気付く。
 なんだ、普通の女の子じゃないか……鴇夜は正直なところ、自分の言葉を聞き入れてくれるとは毛頭思っていなかったので、表向きは冷静さを保ってはいたが内心ではとても驚いた。
「――貴女と、先程までここにいた彼も、ここにいる誰よりも強い願いを有しています。それは悲願と呼べる程に、脳裏から離れることがなく」
 しかしウサギの一言を耳にした途端、鴇夜の顔色がさっと変わり瞳が鋭く眇められる。
「ウサギは、その願いを知っているとでもいうの」
「いいえ、何も。ただわかるだけです。願う心の強さがある一定の境界を超えると、この異次元空間に当て嵌まる人物のみが残るように設定されています。そこから一人、私は選定するためにこの場に姿を現します」
「選定?」
 訝しげな目線に堪えることなく、ウサギの自分の胸に手を当てて答える。
「この世界ではない、別の世界に導く人を選ぶために」
 ――別の、世界。
 鼻で嗤うには、現状のすべてが化学の力を持ってしても立証不可能としか思えず、強がりに異論を唱えることもなく口ごもる。何より本能の囁きが嘘ではないと教えてくるのだ。鴇夜は嫌な予感がする程に、自分の勘を信じることにしていた。けれど驚愕は隠せない。
「私は貴女の願いを叶える力を持っています。貴女の世界を変える、革命的な力」
「無理だよ」
 間髪入れず、鴇夜はきっぱりと否定した。
 このような異世界の技術を用いたところで、現実は何一つ変わらない。雛夜は帰ってこないまま百合子は退院して真実を知る。黒崎家は更なる悲しみに暮れて、柵から抜け出せず永遠の苦しみを彷徨うことになる。
 家族のことを思い出すだけで胸を掻き毟られるような苦しさに囚われかけ、億劫さを振り払うのに胸を大きく上下させて深呼吸し、極めて冷静な態度で応じようとゆったりとした口調で告げた。
「……大体ね、強制的にこんな場所に閉じ込められて用件がそれって、どう考えても僕にメリットがあるとは思えないんだよな。むしろ不利な条件を突きつけられた方が余程しっくり来るというか。慈善事業じゃあるまいし、そちらに何かよからぬ目的があることぐらい馬鹿でもわかる。僕に特別な力があるとかそんな笑い話のような展開なんてあるはずないし……ああそうだ、さっき言っていた願望の強さだっけ。あれが関係するのなら、ここだけに限定しないでこの星全域を調べてみれば? 僕よりももっと貪欲な人は大勢いると思うよ」
 人間は欲深く、誰にしも願望の一つや二つ持っている。そんな彼等から選び抜いて連行した方がきっとウサギのお眼鏡に適うだろう。
「いいえ、私は貴女を選んだのです」
 しかしウサギは瞬く間もなく断言した。
「それにこの星全域を探索することは、力を使役するにあたる限定条件の項目に引っかかるので出来ません。また、貴女の言う通り不利益な条件は確かに存在します。私は貴女がどう抗おうが連れて行くつもりですので」
 強制連行についてはなんとなく察していたので、不愉快さは否めないが無表情でやり過ごした。けれど完璧に隠し通すつもりもなく、確実にワントーン下がった声音で尋ねる。
「違う。僕が言う不利益は、僕を連れて行く目的……ウサギの都合の良い展開についてだ。はぐらかさないでくれる?」
 冗談じゃない。それが鴇夜の本音だ。
 鴇夜という存在は黒崎の家族にとって、時計仕掛けの部品の如く一つたりとも欠けてはならない重要な役割を負っているのだ。以前、不意に生じた思いを――もし自分がいなくなったら、とぼやいたのは記憶に新しいが、それが現実になると誰が思おうか。
「私にとっての都合の良い展開は特にありません」
 眩暈を覚えそうなぐらいの憤怒を、このとき鴇夜ははっきりと覚えた。
 自分と同年代に見える少女に圧倒され自尊心を傷付けられて腸が煮えくり返る反面、どこか冷えた思考がどう抗おうと決して敵わないと指摘する。怖いという感情が完全に消え去ることなく、鴇夜の胸で疼き続ける。単なる一高校生に異世界の人物の隙を見抜く芸当が到底出来るわけがなく、だから鴇夜はただこうして抗弁を取ることしかしない。悔しかったし、女に暴力を振るうほど傍若無人にもなれず頬にあてた手が怒りで震えるのを自覚した。
「つまりウサギは単なるお使いみたいなもので、他の人達の都合が絡んでるってこと?」
「そうですね。それにその目的については、私は詳細を教えられていません」
 だから説明の仕様がありません、と淡々と告げるウサギの眼差しは揺るぎなく、嘘をつくには彼女の瞳は澄みきっている。そこには欠片の敵意すらなく、ただ自分の使命をこなしているだけの印象を受ける。
 そうとわかれば途端に虚しい気持ちが胸を浸した。手の平を返すように怒りが萎えた。
 悪態をついたところで、この少女にとって鴇夜は単なるお使い程度でしかないのだ。これほど馬鹿らしいことはない。怒りは多大なエネルギー消費を迫られるのに、ぶつけたところで徒労に終わるだけではないか。
 それなら、ととりあえず先刻告げられた台詞を真面目に取り合ってみることにする。半ば自棄だった。
「……僕の世界を変えられるほどの力って、言ったね」
 家族の元へ戻らなくてはならない……三人の顔が頭の中で浮かんでは消え、最後に全身で喜びを表す自分の片割れの姿が瞼の裏で鮮やかに舞った。
 二桁の年月を経ても音沙汰ない妹は、鴇夜の中で変わらず幼い子供姿のままで、彼女のことを思うたびに哀しくてたまらなくなる。会いたくて、片時も離れず側にいたいと焦がれてやまない存在は、ここにはいない。
 家族の平穏と、双子の少女の行方。もしも本当に何でも願うが叶うのならば、鴇夜は迷いなく目の前の少女の手を取るだろう。
 ――世間的に死んだ人間を確実に蘇らすことができるのならば。
「本当に叶うのかな」
「私達の世界でも滅多とない力なので大丈夫かと」
「そう」
 頬杖を止め、鴇夜は姿勢を正して背筋をぴんと伸ばす。
「――賭けをしようか」
 そして最後の提案をした。
「僕はね、願いが叶うだなんて本当に信じていないんだ」
 異世界云々といった笑えない話も、周囲を覆い尽くす白金の輝きを見せ付けられなければ確信を得るに至らず信じなかっただろう。そのうえ自分の願望が叶うなんて夢物語を鵜呑みにする、子供の持つ無垢な気持ちはとうの昔に捨てた。
「けど僕はきっと、ウサギの力になす術もなく連れて行かれる。こんな風に現実から切り離された異次元空間を作ってしまうぐらいだしな。僕に元々選択権はないんだ、だったら前向きに考えるのもありだろう」
 喚いて、縋って、嫌だと懇願して精一杯の駄々を捏ねて取り下げてもらうことも、秋人のように行動に移すこともせず、鴇夜は極めて大人しく現状と向き合った。それはきっと半ば諦めの境地であり、その前提に反抗するだけの気力がそこまでないからかもしれない。
 昔、テレビで偶然目にした雛夜を殺したという犯人のことを思い出した。醜悪な中身を持つ自分と同じ人間を、全神経を持ってして拒絶したあのときの感情は、憎悪や殺意といった言葉で括りきれない負の連鎖を内包する。自分の半身を奪われ、何も思わないはずがない。それらをすべて押し込めて誓いを立てたのだ――家族を守ると。
 あの犯人を死神とすれば、目の前にいる少女は女神だろうか。
 殺し続けたあの感情が甦る心地良さは、目前の恐怖すら小物同然で、闇よりも深い傷痕がじくじくと疼きはじめる。
「僕に与えられたのは世界を革命する力。本当に叶うならばこれほど魅力的なものはない。……ウサギが悪いんだよ? 僕に、ほんのちょっとでも希望を見せてしまったんだから」
 最後の言葉は、誰に聞かせるわけでもない、鴇夜の独白だった。
 俯けた顎をあげ、光の加減で変わる瞳の色がより一層鮮やかな強い意思を放つ。
「だからさ。もし叶わなかったら、」
 ――僕はウサギを殺すよ。
 理不尽な要求には理不尽な要求を。一方的な賭けを仕掛け、相手の了承も得ずに鴇夜は誰もが見惚れる美しい微笑を浮かべた。宿る意思は狂気に近く、躊躇する必要性すら感じずに殺意を翳す。
 対してウサギの反応は変わらず、何を考えているのかわからない顔のまま口を開く。
「それはつまり、貴女は貴女の意思で私についてきてくださるととってよろしいのですか?」
「ウサギの命の保障はないけど」
「それでもいいです。ついてきてくれるのなら」
 冗談と取っているわけでもないのだろう。それなのにあっさりと承諾したウサギは颯爽と腰を上げ、物静かな眼差しで鴇夜を一瞥する。鴇夜も鞄を手に立ち上がりその隣に並んだ。身長は然程違わず、鴇夜の方が若干高い。
「それでは、今から空間を繋げます」
 そして――ほとんど麻痺に近い状態で聞き流していた歌が、物凄い速度で音を辿り始めた。
 一面の光がうねりをあげて奔流し、あまりの眩しさと勢いに目許を手で覆い身を屈める。ぶつかり合い交じり合う音色は苛烈な争いを連想させ、視界を塞いだ鴇夜には何が起こっているのか知る術はない。
 そのなか、ウサギは唄っていた。彼の音色に混じらず、初めて会った時と同じく美しい旋律を奏で、まるで計算尽くされた精細さはウサギの本質を表しているように思えた。
 歌が止んで耳鳴りに悩まされる頃には、目の前には光の網が外回りで円を描いて、ぽっかりと暗黒の闇を映し出す穴を作り出していた。
 視界を開いた鴇夜は唖然としてそれを眺める。立ち尽くす中、不意に右手をやんわりと握られ、その柔らかさに似合わぬ冷たさに思わず身体が震える。
「行きましょう」
「うん……」
 足を踏み出して思うのは、直前まで一緒にいた秋人のこと。
 ――ごめんな。
 けれど鴇夜に後悔の念はなく、心の中で謝罪を済ませ、この世界から姿を消した。


 「……トキ?」
 現実世界に戻り騒ぐ飯島を無視しながら考えるのは、大事な双子の片割れの義兄の安否のみ。秋人は鴇夜の声が聞こえたような気がして、人混みから逸れた駅の柱に寄り掛かったまま視線を上方へと向けた。
 見上げた空は街中のネオンや月明かりが照らす闇に満ちていた。


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