Round-T/008


 ――トキちゃ、ヒナくやし。くやしーの……っ。
 自分と瓜二つの顔が、目尻に透明の雫を溜めて、部屋の隅で元々小さな身体を丸めて更に縮こまっていた。鴇夜はその真正面に座り、珍しく沈んだ気配を見せる相手をどう扱えばいいのかわからず黙って眺めている。青紫と灰の入り混じる美しい瞳が濡れて、何度もくやしいと繰り返す少女に掛ける言葉が浮かばない。安っぽい励まししか思い付かなくて口を閉ざしていた。
 この光景は再婚以前、幼稚園年中時の記憶だ。普段は笑顔を振りまくばかりの楽天家な雛夜が涙を見せた、唯一の記憶。母は仕事で夜遅くまで帰ってこず、片親がいない上にその瞳の色彩が日本で異質なことから鴇夜達に対する周囲の風当たりは強く、二人きりの濃密な世界が構築されていた時期でもある。
 雛夜は同じ園の子供達に敬遠されていつも寂しげだったが、こうまで落ち込んだ日はついぞなく、鴇夜は初めて目にする妹の様子に戸惑いを隠せずにいた。
 ――ヒナね、ヒナはいーの。ヒナはいーけどトキちゃはだめなの。
 なにがだめなのと尋ねても、雛夜はこの日ついに口を割らなかった。
 遅まきながら知ったのは、先生方が鴇夜の子供らしさの欠けた冷然とした態度が気に食わないらしく、陰口を叩いていたという事実。偶然耳にした雛夜はそれはもう大激怒して歯向かったらしい。
 とはいっても、子供が楯突いたところで高が知れているので大きな騒ぎにはならなかった。このとき鴇夜は珍しく一人別の部屋で絵本を眺めていたため、何一つ気付いていなかったのだ。
 そのことを再婚後、雛夜本人から時効とばかりにぽろりと洩れた時、鴇夜は自分の半身に愛しさを募らせただけだった。先生ことなど眼中になく、妹を益々大切に思うだけだった。
 この頃から鴇夜の中では雛夜が世界で一番大切な女の子で、それ以外のものなど目にも入らぬ重苦しい愛を抱いて……現在、理性を無くさずにいるのが不思議なくらいだと。
 この思いはとうの昔に正常な判断を見失っているのだろう。





 ふとして意識が浮上した。
 途端頭が軽度の痛みを訴えはじめたのに、鴇夜は小さな呻き声をあげる。頬に当たる固く冷たい感触は滑らかで、瞼の裏で白い光が淡く差し込み気持ちの良い朝を感じさせるが、伝わる微弱な震動はそれと決して相容れない荒々しさに満ちている。
 遠くから聞こえるのは喧騒と、ぶつかり合う鋭く物騒な金属音、そしてこれまで耳にしたことのない外国語を使用した過激な論争。
 鼓膜を震わす数々の要素が頭痛と伴って覚醒を促し、鴇夜は多少の吐き気を覚えながらも薄らと瞼を開けた。
 ――真っ白だ。
 飛び込んできた光景は、歴史書で見かけるギリシアの神殿建築のような真白い造りをした小部屋だった。
 重たい身体を動かすことなくそっと目を配る。
 鴇夜の視界には全体が大理石で造られた建物の一部が広がっている。目の前の一面の壁には大きく彫られた模様は魔法陣のようなサークルを描かれ、中心に二重の線で引かれた五芒星が存在している。その周囲を太陽と月が星に寄り添うように陣の構成に溶け込み、そこで不思議に思えたのは、それらを覆い包むように百合に酷似した可憐な花が、蔓を絡ませ細長い花びらを惜しげなく広げ咲き誇っていたことだった。繊細なフォルムをした、神秘的な清浄さを感じさせる流麗なデザインだと思った。思わず見惚れるも、背後の口論が止むことではたと我に返り息を詰める。
 内容を聞き取ることは言語がわからない時点で不可能に近く、またこの状況下で都合の良い展開を期待出来るはずがない。しかし幸いなのかは不明だが、その片割れはつい最近耳にした抑揚のない澄んだ響きからウサギだと知れる。
 ――ここはどこだ。
 自分の意思で底なし沼を思わせる暗い空洞に足を踏み入れたことは覚えている。その先からは記憶が途切れて、気付いたらこの部屋で倒れていた。いまいち異世界という実感が湧かず、気軽に外国にでも旅行に来たような感覚を味わい、その間も苛む頭痛に舌打ちしたくなる。
「――起きたのですか」
 反射的に薄目を開けた先、いつの間にか前に回り込んだウサギが鴇夜の顔を覗き込んでいた。もう一度寝たフリをしてやろうかと思ったが、既に目が合ってしまったので渋々「うん」と肯定の意を口にした。
 身体を起こして、今度は全体を見渡す。ウサギの他に二人の見張りらしき人間が扉の両側で険しい顔をして立ち並び、またでっぷりした腹を抱えたいかにも悪人風の中年が憤慨を顔に貼り付けこちらを見下していた。扉と壁に彫られた紋章以外は本当に何もなく閑散として、一通り目にした後ウサギに視線を戻す。
「着いたの、異世界」
「はい。ようこそ私達の国≪アルトメリア≫へ」
「アルトメリアね……」
 地球上でそんな名前の国を聞いたことがない。それにその事実を深く噛み締めるよりも今はこの頭痛の原因を知りたいものだ。
 しかし鴇夜が口を開く前に、突然太った親父が唾を撒き散らしながら声を張り上げた。鴇夜は驚いて上方へ顔を向ける。
 鴇夜と目が合った親父はますます甲高い声をあげて何かを訴えるが、タヌキやらトスカーナやらこんにゃく畑やら聞き取り自体難しげな異世界語を炸裂されても意味がさっぱり通じず首を捻るしかない。
 相手の足許まである白い長衣は、神父が着用する服装みたいで清潔感を漂わせるはずが、贅肉のたるみを覆い隠すためにサイズ規格外の物を身にまとっているためか、ひどくみっともなく映る。しかも何枚も重ね着をしているせいか汗塗れで汚く、決して上品といえぬ態度といい用件でもなければ近寄りたくない人物であるのは間違いない。鴇夜は親父を観察するうちに嫌悪感を抱き、あからさまに眉を顰めた。
 ウサギは親父に視線をずらし、短い単語を吐いて立ち上がる。どうやらその返事がお気に召したらしく、親父が肉だるまの顔をぐしゃりと歪めた。醜悪極まりないそれを直面した鴇夜は意識を遠ざけたい気持ちになり、それを叶えるかの如く頭の中が余計に掻き乱れていく。
 だがそれもつかの間だった。
 ゴウン! と建物が爆発でもしたかのような轟音と共に場が震動した。
 この部屋にいるウサギを除いた皆が動揺を露にする。鴇夜の虚ろな目にはっとして理性が宿り、そして疲れの滲む溜息をついた。本音としては気絶したかった。親父は再度喚いているが、ウサギは清々しいぐらいにそれを無視して「大丈夫ですか?」と鴇夜を労わるのを胡乱な目を遣る。とりあえず現状確認だ。
「……さっきから思ってたけど、これってただごとじゃないよね」
「そうですね。現在この神殿は襲撃を受けています」
 あまりにさらりと言われたので、一瞬何かの悪い冗談かと思った。が、この少女が冗談を口にするわけがない。鴇夜も身体を起こし、遠くに耳を澄ませる。
 ――先程より音が鮮明に聞こえる。
 気のせいでなく、まさしく戦いの真っ只中だと知れる音だった。
「ねえウサギ、ここに留まっていたら色々と不味いんじゃない? それともお前が使う力をあてにしていいの?」
 詳細を尋ねるには時間が足りない気がするので要点を絞って伝えると、案の定首を横に振られる。それだけでどっと疲労が増したような気がした。現時点ではかなりの距離がとれているみたいだが、それも時間の問題だ。
「それなら早く安全なところに移動しよう。僕はわざわざ死にに来たわけじゃないんだ」
「待ってください」
 扉に向かう寸前、手を引かれる。何かと思い振り返れば、ウサギの右手の中指から引き抜かれた指輪を右手の小指に通された。自然と互いの手の骨格を見比べてしまい、やはり自分が女じみた細さだとしても本物の女の柔らかさには到底敵いはしないと考える。
「ぅおっ」
 と、小指でも若干余った間隔がぴったりまで絞られたことに思いがけずぎょっとした。ウサギの手を払い左手でその部分を覆い、軽く睨みつける。
「ちょっと待って、これ何らかの呪いアイテム?」
「呪われてはいませんのでご安心を。ちょっとしたお守り代わりです」
 胡散臭すぎる。
 しかし今は拒否している場合でなく、鴇夜はなんらかの文字が彫られただけのシンプルな指輪を撫ぜるだけに留めた。どうしても嫌になったら外せばいいだけのことだ。
 この間にも建物の破壊音は立て続き、ウサギは見張りに命令を飛ばす。焦った様子は見られないがそこはかとなく漂う緊張感に鴇夜の表情が硬くなる。鴇夜はこの建物の構造を把握していない自分が動いたところで足手まといにしかならないことを理解している。だからせめて冷静になるよう努めてウサギの行動を見守る。
 しかしそんなことも出来ない愚か者が存在したらしい。
 親父は地面が揺れるたびに大仰に身体を震わせ、相変わらず何かを主張し続けていた。だけどウサギに冷静にかわされ、見張り達も彼を役立たずと見なしているらしく少女の方に耳を傾けているようだ。
 その状況をついに我慢しきれなくなったらしい。親父は逆上して怒鳴り散らすだけでなく、こちらに近付く見張りを擦り抜けて扉へと駆けた。見張りが止めようとするが間に合わない。そのまま出て行こうとノブに手を伸ばしたそのとき。
 ドオオオオオオオオオオオオンッ!
 鴇夜の目の前を圧倒的な灼熱の奔流が過ぎった。その際の衝撃波に軽々と吹き飛ばされ、勢いよく床を転がり後ろの壁に思い切り背中からぶち当たる。ほんの一瞬ぐっと肺を圧迫されるも、すぐに息を吹き返し横倒れしたまま咳き込んだ。頭がぐらぐらして吐きたくなるも、唾を嚥下して無理矢理流す。
「……っ、いったい、なに、が」
 言葉が途切れた。
 開いた視界では驚くべき光景が広がっていた。
 左壁面が半ば崩れ真っ青な空が覗き、扉のあった反対側まで瓦礫の山となっている。この瞬きの間に完膚なき破壊が施されていた。
 鴇夜の周囲に立っていた二人は、腰に下げた剣を地面に突き立てて強風を防いだようで膝をついた格好で固まっており、背後からその顔色は窺えないが決して楽観出来る状態でないことは明らかだ。ウサギはまたもや力を発動させたのか平然として佇んでいたが、どこから取り出したのか白いマントを全身に被り、何者かわからなくさせている。しかし鴇夜が何より釘付けになったのは、扉のあった場所にある一つの影だ。
 石炭のように黒ずんで、人間の形をした「何か」が蹲っている。
 ――あれは、なんだ。
 鴇夜の額にじわりと汗が滲み、全身に冷たいものが走る。焼け焦げた嫌な臭いが辺りに漂い、それはどうしても鴇夜の確信を促させる。
「あの、おやじ、か……」
 溜め込んだ息と共に言葉にして、顔に張り付いた黒髪を払いながらゆっくりと身体を起こす。ぎゅうっと締め付けられるような胸の痛みを感じ取り、額の前髪を掻きあげながらもう一度息をついた。
 人の死は嫌いだ。
 例え相手が生理的に受け付けない俗物だとしても、死を目の当たりにするのはごめんだと思う。
 親父だったものから目線を外し、深く深く頭を垂れる。
 初めて死体を目にした気分は最悪だった。気持ち悪い。この上ない嫌悪が込み上げる。人体の焼けた臭いに鼻を押さえる。
「なあ、テメェが異世界人か?」
 前方から不意に聞き覚えのない気だるげな声が届いても、返事をする余裕もなく項垂れたままでいた。
 ジャキ、と機械音がして次の瞬間、バァン! とテレビで耳にしたことのある野太い射撃音が辺りに響き渡った。反射的に顔を上げる。
「……はあ?」
 そしてその先にいる人物を見て呆気にとられた。
 上方に銃を向けた男は、ウサギに負けず劣らず奇抜な装いをしていた。黒系統のタンクトップの重ね着に薄茶の長衣を羽織り、くすんだ白い細身のパンツに黒のロングブーツを履いた格好は色彩も含めて現代でも然程違和感がない。しかし幾重に巻かれたごついベルトに垂れ下がるホルスターが長衣から覗くだけでなく、うねった白髪と、極めつけに顔の七割を覆う真っ赤なゴーグルがすべてを台無しにしていた。
 見張り達が雄叫びをあげて男に飛び掛かる。衝撃波の余韻のせいか鴇夜の目から見てもその動きは鈍く、男は斬りかかる剣を一回転してかわすと同時に両手に持った銃をその後頭部に振り下ろした。容赦ない攻撃に二人はそのまま崩れ落ち、男は即座に左の銃をウサギへと向けた。鴇夜ははっとして腰を浮かそうとするも、途端鋭い痛みが頭に走り口から呻き声が洩れるだけに終わる。
「案の定だ、贄のいるところにテメェもいると思ってたんだ。今度こそ逃がすわきゃあいかねぇなぁ」
「私は役目を終えるまで死ぬことは許されません」
「その顔で気色悪ィ話し方すんじゃねぇよっと」
 いとも簡単にトリガーが引かれ、鋭い銃撃が一発なされる。ウサギを覆うマントを掠めて鴇夜のちょうど真上辺りに命中し、壁の細かな破片が鼻先に当たることで無意識に肩が震えた。
 なんだこれなんだこれなんだこれ……!
 男の出現したことで親父が死に、見張りが倒れ、ウサギが狙われる。壁に食い込む弾丸は本物で、遠くの喧騒も嘘偽りない事実で……鴇夜は目を大きく見開いた。
 そうだ、これは現実なんだ。
 このときになってようやく、鴇夜は自分が地球ではない別世界にいることを実感した。


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