[3]


 あっという間に時は過ぎて放課後。祐介は憂鬱な気持ちを隠しもせずに暗い表情をしていた。
 休み時間以降、メイは機会をうかがっては祐介に話しかけてきたのだ。祐介自身が何も話さないこともあり、初対面ということもあって大体が質問ばかりだが、そもそも隣同士だからといってここまで親しげに関わってくる彼女に疑念が生じないこともなかった。
 自意識過剰ともとれるかもしれないが、どういう意図があってか意識されているような気がする。人懐こいといえばそれまでなのだろう。しかしあからさまに関わりたくないと態度に出ている祐介に、気付かないほど愚かではないはずだ。
 さらにいえば、無愛想である祐介がメイにだけきちんと接していることに対して、他人が良い反応をするわけがなく、頭痛の種が増えたことに案内する前から既にうんざりしていた。
「伊藤くん、準備終わった?」
「あ。ああうん、できた、かな?」
「ふふ、なんで疑問系なの。まずはどこに連れて行ってもらえるのかな?」
 右肩に小さなリュックをしょって、問いかけてくる目は明らかに期待に満ちていて、祐介は苦笑いを零した。
「そうだな……そういや春日は入りたい部活はあったりすんの?」
「ううん、元より入らないつもりだからいいの。それにクラスの女子たちが昼休みを使ってだいたい案内してくれたし」
「え、じゃあ俺が案内する必要ないんじゃねーの」
 授業が終わってしまえば後は各自自由のため、既にほとんどの生徒が教室から出払ってしまっている。
 不思議なものだ。見栄えするメイをあれだけ騒ぎ立てていたクラスメイトたちは、今では関心を示さずいなくなっている。いち早くクラスに馴染んだといってしまえばそれまでだが、それにしては皆素っ気なさすぎるのではないだろうか。
(まるで、誰も春日の存在に気付いていないような……)
 そういえば、春日と挨拶をして帰っていったクラスメイトは何人いただろうか。
 唐突に違和感が襲った。
 しかしだからといってそれに何か深い意味があるのと問われれば特になく、祐介は嘆息をついて思考を終わらせることにした。考え事は苦手だし、眠気を引き起こす行いは出来る限り避けたい。
「……伊藤くんとね」
「え?」
 かろうじて聞き取れる程度の小さな声に顔を上げる。言いにくそうに手をもじもじさせたメイが、あのね、と呟いた。
「もっと話をしてみたかったの。なんでかはわからない、けど……仲良くなってみたいなって。それで、その……一応弁解させてもらうとね。頼んだときは本当に校舎内のこと、本当にわからなくて」
 リュックの紐を握る手にきゅっと力が入るのがわかった。
「本当は、伊藤くんが迷惑がってるの、わかってたの。話しかけても、反応薄いし。誰とも一緒にいたくないんだなって。けど」
「帰ろっか」
「……え?」
 罪悪感は一応あったのだなと、彼女の様子を目にしてようやく腑に落ちた。もやのかかった疑問がすっきりして、まあ良いかなという気になってくる。
 投げやりともいえるかもしれないが、不思議なことにメイに対してだけは関わることを辛いと感じず、単純にその行動が不審めいて見えていただけだったので、はじめから怒りは感じていなかった。
 ぽかんとする彼女に、祐介は微苦笑を滲ませる。
 恐ろしいと感じた紅の瞳も、今では何故か懐かしさすら覚えていた。
 デジャビュとは違う、気を抜けば心まで引きずられてしまいそうなこの感覚は一体なんなのだろう。
「案内が終わってんなら同じところをもう一度まわるんも退屈だろうし。話なら帰りながらでもできるだろー……て、なんだよ」
 メイはまじまじと祐介を見つめてくる。
「伊藤くんて、変な人だね」
「はあ? 春日には言われたくないんだけど」
 人形のように整った顔に凝視されると、ときめくというよりも居心地が悪く、しかし言葉にされた内容に祐介は口を引き攣らせた。対してメイはほがらかに笑った。
「そんなことないよ。私はフツー。あ、外見はこんなだけどね。じゃあ帰ろっか」
「あ、おい待てよ」
 一気にご機嫌になった彼女は鼻歌まで歌いそうな勢いで教室から出て行く。追って出たが、メイは既に廊下の端におり、大きく手を振っていた。
「はやくー」
 先程までの殊勝な態度は一体どこへいったのだろう。なんともいえない脱力感を味わいながら、祐介は肩を竦めてメイの許へと足を進めた。
 取り留めのない会話を興じながら校門を出る。前方にピンクの並木道が目に飛び込んできて、会話が途切れた。たったそれだけのことでぼんやりとした意識がほんの一瞬でも覚醒するような、祐介にとって校門へと続く並木道を通る登下校は特別そのものだった。
「祐介くん、目ェイっちゃってる」
「っはあ? ンなことねーよ」
 隣を歩くメイは祐介の視線を追って、ああ、と納得のいった声をあげた。
「ここの道、綺麗だよね」
「ん。俺、この景色すげえ好き」
「へえ……」
 ひらひらと、そよ風に揺れて緩やかに散っていく桜の下を通る祐介たちの足取りは亀並みといっていいほどに遅い。ゆっくりゆっくりと、アスファルトの地に足を踏みしめながら歩む道のりは心地よくて、眠気とはまた違う気の抜けように顔がゆるんでいく。
 そんな祐介を見上げていたメイは、ふ、と口許を綻ばせた。
「アホ面。ホントに好きなのね」
「受験んとき、ここに決めた理由もこの景色を見たからなんだ。なんてーの? 懐かしいってか、落ち着くってか、昔っから……あー……可笑しい、かな?」
「なにが?」
 きょとんとする彼女を見て、苦笑する。
 小学校の頃、桜を見て異様にはしゃいでいる祐介を見た友達に、女々しいと馬鹿にされたことがあった。それ以降、こういった面は極力誰にも見せないように努力してきたというのに、彼女の前ではあっさりと表に出している。
 今日出会ったばかりだというのに、これほど無防備にいていいのだろうか。初対面に感じたあの恐怖を決して忘れたわけではないのに、気を許してしまいそうになる。あの悪夢の件についても解決の糸口さえ見つかっていない状況で、他人に構っている余裕など見当たらない今、穏やかといえる時間を過ごせていることが不思議でたまらない。
「私もね」
「うん?」
 メイは桜の木々をとても穏やかな表情で眺めていた。
「懐かしいって思うの。そんな私を変だと思ったりする?」
「あ、いや」
 戸惑う祐介の答えなど元より期待していないかのように、表情を変えないままメイは言葉を紡いだ。
「けど私にはちゃんとした思い出があってね。……初恋の人が綺麗なしだれ桜の下に住んでいたの。漫画みたいでしょ? けどホント。私は見事に一目惚れ、けど失恋しちゃった。ずっとずっと前のことよ」
「そんなこと、俺なんかに話していいのか?」
「秘密にしていることでもないしね。それに伊藤くんだったら笑わない気がしたから」
 そこでようやく視線を絡み合い、どきりとする。紅の瞳が柔らかく細められて、まるで祐介がその想い人であるような錯覚を起こしてしまいそうで、胸が疼くような擽ったさが襲った。
 誤魔化すように後頭部を掻いて、目線を上にあげる。
(嫌だな)
 こんな空気、味わったことがない。
 思春期といっても特定の女子を強く意識したことがなかった祐介は、皆で騒いで楽しんで、バスケに没頭して……そんなものだと思っていた。異性に興味を抱くのも、成り行きに任せればいいと。
(最悪だ)
 何もこんなときに、こんな感覚を覚えさせなくてもいいじゃないか。
 サイドに流した髪を無意味に弄くりながら目を伏せる。時折こっそりと彼女に視線をずらし、すぐに逸らした。本気を出さずとも呆気なく押さえつけられる、ほっそりとして柔らかな、明らかに自分と違う構造をした。
 ――隣にいるのは、女の子なんだなあ。
「……そっか」
「うん」
「桜、綺麗だな」
「うん」
 上手い言葉が見つからなかった。気恥ずかしさから言葉数は減ってしまい、戸惑いが心を支配し続けたが、祐介は彼女と、本当にゆっくりとしたペースで歩き続けた。
 緩やかな風に靡く白髪が一本一本繊細に揺れる様がとても綺麗で、明るい陽射しを浴びた横顔が、蜂蜜色の肌を際立たせて柔らかく映して。
 異性という事実を一度意識してしまったら最後、ひどく胸がざわめいて、きゅっと口許を引き結んだ。





「ここを左に曲がるの」
「俺はまっすぐ。……送ってこうか?」
「ううん、大丈夫。ありがとう」
 二手に差し掛かり、突拍子もなくメイは左の道を指して言った。
 顔には出していなかったが、祐介は驚いていた。まさか家が目と鼻の先にあるところまで一緒だとは露にも思っていなかったからだ。今の今まで互いの家までの道順を知らずに歩いていたのも間抜けな話で、きっと寝不足が全体的に思考を鈍らせているのだろうと体の良い言い訳を思いついたりもしたが、祐介は複雑げに眉を寄せてやはり間抜けだと少しばかり肩を落とした。
「それじゃあ、またね」
「ああ、また……」
 力ない返事をして、左角を曲がりまっすぐに歩いていく華奢な背中を見送る。
 メイが歩くたびにさらりと流れる雪のような真白い髪は、日本に住んでいる祐介には物珍しい。一緒にいたときも見ていたそれを飽きず眺めていると、不意にメイが振り返ってきてどきりとした。
(なんかやったかな、俺)
 咄嗟に生じた考えはどうやら杞憂だったようだ。手をひらひらと振られてこちらも手をあげて返す。そこでようやく彼女をずっと目で追っていた無意識の部分を気付かされて、微かな羞恥を感じた祐介は誤魔化すように咳払いをし、その後動きはじめた。
 しかしほんの数メートルの距離を早足気味に歩いてすぐに速度を落としていく。姿が見えなくなってしまえば冷静さを取り戻すのも早かった。
(今日は変な日だったな)
 そんな感想が浮かび、改めて今日はおかしな日だったと再確認する。
 悪夢を連想される要素が、現実世界に唐突に舞い降りてきた。それはどのような意味をもたらすのだろう。
(もしかして今までのは、全部春日のことを示していたとか)
 漫画じゃあるまいし、と口許にも嘲りに似た笑いが浮かび上がる。
 そのような期待は、むしろ自分の首を絞めるだけの結果に終わることはわかっている。だからといって、偶然と言い切れないことも確かだった。
 追い込まれた状況に陥っていると、楽観的思考の祐介にしても、ほんの些細なことでも怪しいと思う部分があるだけで全力で疑ってかかりたくなるのだ。かといって、初対面のメイが祐介に危害を及ぼす理由はない。それならば疑う要素など何ひとつないのでは、という結論に至ってしまうので堂々巡りだった。
 そもそも普通の女の子がこのような超常現象を起こせるはずがないではないか。
(考えるのは苦手だ)
 祐介は髪をぼりぼりと掻いて溜息を吐く。
 自宅に辿り着き、入口の門に手をかける。とりあえず家に入ったら、台所で夕飯を作っているだろう母親にただいまと声をかけて、重く感じる躯をゆっくりと休めようと思った。


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