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 尖ったナイフを浮かばせる鋭利な眼差しが肌を刺して、視界は閉ざされたままだというのに、息のかかるほど近くに誰かがいることを知らせてくる。
 ――さがしてた、ずっと。
 氷のように冷たい手が頬に触れて、まるで死体を浮かばせる体温のなさに息が詰まる。夜の闇に紛れて囁かれる響きは、躯の芯まで震えてしまいそうな艶を帯びており、もし意識がはっきりしていたら腰が引けていたことだろう。一度舐めてしまえば抜け出せない麻薬のような甘美な蜜は、頭の隅でずっと発している警告音を掻き消していく。
 ――こんどこそ、いっしょに。
 その言葉を合図に、あれだけ重く感じていた瞼が開く。

 その先にある光景は――





 今日はいつもとはまた別の意味で寝覚めが悪かった。
 祐介は軽く瞼を揉みながら、起床してからずっと止まない頭痛に耐えつつ学校へと向かう。春先のためか気温は不安定気味で、昨日あれほど温かく感じた風が今日はほんの少しだけ冷たく、背筋を這い上がる悪寒にぶるりと躯を震わせた。
(ホント、なんなんだ一体)
 不思議なことに今日は悪夢を見なかった。それについては喜ばしい限りだ、両手を掲げた万歳のポーズで近所じゅうを走り回ってもいいぐらいに嬉しい。しかし残念なことに、その代わりかふわふわして現実味のない、本当の夢のような「夢」を見た。
 夢と断言出来ないのは、そのときの光景がはっきりと頭に焼きついているからだ。想像上どころか、まるで本当にあったかのようにくっきり鮮やかに思い出せる。
(あれは……)
 視界が開けた先にいたのは、深遠なる紅の瞳を持った少女の姿。先日転校してきた春日メイだった。暗闇の中まったく見えないのに、不思議と彼女だとわかった。
 メイは勉強途中、机にうつ伏せて眠ってしまった祐介の前に立ち塞がり、そして初対面に感じた異様な雰囲気を漂わせながら祐介の目許を手で覆ってくる。
 直前に見えた顔は笑っていた。学校や帰り道で見たものとは違う、年頃の少女とは思えない冷たくも艶やかな微笑は祐介の目には歪んで映った。
 その後のことは記憶になく、気付いたら朝だったというわけだ。
 一秒後に空が明るくなっていたような感覚で、ただし頭を苛む微かな鈍痛が祐介を悩ませる。どうせならすっきり爽快にさせてくれればこのところの睡眠不足を少しは解消できたのにと悪態をつきたくなるが、それよりも今はこれが何を示唆しているか考えることの方が優先だった。
(やっぱ直接尋ねてみるべき、だよな)
 体調不良にも関わらず学校に行こうと思い当たったのもそのためだ。おかしい奴と思われても、それとなく聞くだけでもなにかしらあるかもしれない。浅慮でも思いつきようがないのだから仕方ない。
 学校に着いて教室に向かう。早めどころか遅刻ギリギリの時間帯で、大方の生徒が既に登校しているだろう。開きっぱなしの教室の扉を潜り、祐介はメイの姿を探すべくまずは自分の隣の席を確認した。
 しかしそこは空だった。人が使っている形跡すらない本当に空席で、祐介は怪訝に思う。
「なあちょっと聞きたいんだけど」
「はよ、どーかした?」
 今立っている位置から一番身近の席に座るクラスメイトに、彼女の席を指さして言った。
「はよ。春日の奴今日欠席なのか?」
「春日?」
 何を言っているんだこいつ、といった風情で瞬きされる。
「昨日転校してきた春日メイだよ。あいつまだ学校来てないのか?」
「はー? なんの冗談だよ伊藤、面白くねーぞ」
「冗談って」
 祐介の指した方角に視線を投げて、クラスメイトははっきりと言い切った。
「そんな奴このクラスにいねーじゃん」
(なに言ってんだコイツ)
 頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受け、祐介は言葉を失った。嘘をつくには、彼はふざけた様子を見せるどころか人のいない席を眺めながら、馬鹿だなあ、とカラカラと笑う。そしてこちらの胸を小突いてきた。
「つーかあの席ずっと使われてねーじゃんか。ンな冗談よそではやるなよ? 笑い者にされるのがオチだからな」
 本当は、悲鳴なりなんなりあげて違うと否定すればよかったかもしれない。そこは春日メイという少女の席はずだと。しかし苦笑混じりに告げられた忠告に労わりが滲まれており、祐介は顔を伏せるに留めた。
「……マジで、いねーのか……」
「いねーよ。なんだよ、お前どっか具合でも悪いんか?」
「いや……。冗談だ、ごめん」
 のろのろと自分の席に向かい、大人しく着席する。痛みを発する頭を必死で回転させながら、今の会話を繰り返し思い出し、まさかとかぶりを振った。
 騒がしい教室のなか、隣の席だけがまるで隔絶されているかのように静かだ。その光景が違和感に映り、前方の席のクラスメイトにもう一度確認をとるも答えは同じだった。
『春日メイという名の生徒は存在しない』
 自分を除け者に全体で嘘をついているというには、皆がこの席の人物について気にしなさ過ぎた。
 どういうことかと思い悩む間にチャイムが鳴り担任がやってくる。彼もまたこの空いた席について一言も追求せずに去っていった。
 おかしい。さすがに担任までもが嘘をつくはずがないし、もし春日が欠席をしているのならば連絡事項として言うはずだ。
 そもそも、一つだけぽっかり空いた席に思うことはないのだろうか。
(……あ、れ?)
 祐介は不意にある疑問にぶつかった。
 ――春日メイが転校してくる以前、この席は空いていただろうか?
 どうということのない疑問だ。もし春日メイがこの席に着く前に誰かが存在していたと仮定すれば、ここは空席でなく、今も祐介の隣にその人物が座っているはずなのだから。
 そんなことよりも今は、何故メイの存在が皆に忘れ去られているのかを考えるべきだと思考を切り替えようとしたが、どうしても解せない引っかかりを覚えて、胸が掻き回されるような不快感を覚える。祐介は髪を掻き毟り、周囲に聞こえない程度の唸りをあげた。
(やっぱ、なんか変だ)
 メイがいないことにではなく、この席が空席であるという事柄がおかしい。徐々にその気持ちが膨らんでいき、祐介はそう思う理由を検討するに自分を叱咤する。訴え続ける頭の痛覚を半ば無理矢理シャットアウトさせ、ぐちゃぐちゃに掻き乱れる思考に吐き気を催しながらも躍起になって記憶を探った。
(思い出せ。何かあるはずだ)
 矛盾といえる何かが、自分の中にある。
 一限の授業は始まっていたが、祐介は考えに耽る。
 そしてなんの脈略もなしに脳裏に浮かんだ映像が、祐介の目を見開かせる。ついに思い当たった真実に、顔が青褪めていった。
 ――隣には、確かに「誰か」が存在していたのだ。
 春日メイではない、生粋の日本人である黒髪の少女の姿が鮮明に浮かび上がる。授業中、黒板一点に集中し真面目にノートをとる姿勢が優等生ぜんとして、それ以外主だった特徴のない大人しい人物だった。
(なんで俺、忘れてたんだ)
 そしてなんで皆、そのことに微塵も気付いていないんだ。
 もしかして他の席に移ったのでは、とそっと周囲に目を配るも、どこにも記憶にある少女の面影はなかった。
 唖然とするよりも先に口許を押さえ、ブレーキのきかない感情の奔流に流されないように唇をきつく噛み締める。これまでに感じたどの類とも違う不気味なそれに実感が帯びて、祐介は心の底から恐怖した。本能だけでない、理性のすべてが納得してでのこれだった。
 周りが彼女達を知らないというように、夢オチという馬鹿な話があるはずがない。春日メイが昨日転校してきたという自分の記憶を覆す証拠はなく、逆に彼女が存在しないという証拠もない。だからこそ余計にこの現状が恐ろしく感じた。
 何が起こっているのかわからず、何もすることが出来ない自分がとても無力で、この不安定な異空間にいることすら我慢がならない。
(まじ、吐きそ……)
 祐介は人の目に晒されるのも構わず急いて席を立っていた。クラスメイトの視線が集中するなか、後方の扉から出て行こうとするのを教壇に立つ教師が止める。しかし顔色の悪さから何かを感じ取ったのか、言及するよりもこちらに駆け寄り、心配げに眉を下げた。
「伊藤くん、具合が悪いなら保健委員を付き添わせて保健室に行く?」
「……いい、え。大丈夫、です。一人で、行けます」
 本当に? と再度確認をとってくる教師に空いた手を振って断りを入れ、祐介は教室を出た。誰の顔も見ることが出来なかった。
 息苦しいと感じた狭い空間を飛び出して、少しだけほっとする。
 授業中のため廊下は人気がなく、通り過ぎる教室からはペンを走らせる音と混じって教師の朗々とした声が聞こえてくる。誰の姿を見ることなく、しかし人の気配が身近にあることに安堵を覚えながら、とりあえずキャパシティーのオーバーした頭を休めようと、よろめきそうになる足を踏ん張りながらリノリウムの床を歩いていく。現実逃避に近く、今の祐介には身を縮めて異変が通り過ぎるのを待つことが得策としか考えられなかった。
 起床した頃より頭痛も増しており、ぐらつきそうな意識を保つことに吐き気が込み上げるも、結局胸を掻き回して終わる中途半端なそれにうんざりする。額にびっしり脂汗を滲ませながら歩く道のりは思ったよりも遠く、早く保健室の硬いベッドに横になりたいと願った。
顰めた顔が苦虫を噛み潰したような表情に染まり、深い溜息をつく。
(俺が何をしたってんだ)
 他の生徒と大差ない高校生活を送ってきただけの自分に、どのような非があってこのような事態に巻き込まれなくてはならないのか。誰かに恨まれるようなことをした覚えはなく、だからこそ納得がいかず苛立たしさが生じてしまう。祐介が願うのは平穏な毎日で、退屈な日々で、それさえあれば生きていけるのに、それすら許されない状況に追い込まれている。自分を取り巻く今の環境に理不尽を覚え腹立たしく感じても原因がわからなければ当たりようがない。
 どんどん暗くなっていく自分の思考を振り払うように一度深呼吸をし、肺にいっぱい溜め込んだ空気を思いっきり吐き出す。そしていつの間にか俯かせていた顔を上げ、もうすぐ保健室というところで足を止めた。いや、正確には止まらざるを得なかった。何故なら目的地の扉の前に、今もっとも会いたくて会いたくない人物が佇んでいたからだ。
 喉がカラカラに干上がって、しばらくして口内に溜まりはじめた唾をごくんと呑み込む。
 祐介はその名を口ずさむ。しかし声にならず空に溶けて消えた。
 しかし春日メイは、はじめから祐介にいたことをわかっていたかのようにこちらに顔を向けてきた。

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