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祐介は走っていた。気付いた時には足が勝手に動き、メイのいる場所とは正反対の方角を駆けていた。先程まで引きずっていた体調の悪さを抱えながら、当初から息切れに近く、それでもこの場から離れることが先決だと本能が叫んでいた。
絡み合った視線から、初めて会ったときとは比べ物にならない程の怖気が襲い掛かり、祐介は今度こそはっきりと悟ってしまったのだ。同時に胸のうちを巡るいくつもの問いが解けたような気がした。
――「アレ」は人間じゃない。人間の姿形をした、人間でない何かだ。
当初感じた悪寒は、自分と次元そのものが違う異質さを肌で感じ取ったからなのだと今さらになって気付き、舌打ちしたい気持ちになる。身の毛がよだつ、とはこのことをいうのだろう。未だ理性の欠片が残っていること自体、奇跡に近い状態だった。
忙しない靴音が廊下に反響し、祐介以外の何者の姿がないことからやけにうるさく聞こえる。自分の口から吐き出る疲労の篭った浅い呼吸が耳をついて、元々そうなかった余裕が失われていく。
おかしいのだ。まっすぐ突き進んでいるはずなのに果てが見えず、保健室で彼女を見かけるまでは確かに届いていた生徒達のざわめきがぱったりと止んでいる。無限回廊の如く永遠に終わりのない同じような道を延々と走り続けるのは心身共に消費を激しく、祐介は上下する胸を覆う服を強く握った。
(今止まったら、動けねえ……っ)
その場に崩れ落ちて一歩も動けなくなる光景がありありと浮かび上がり、その後のことを考えるだけでぞっとする。
幾度も思う。どうして自分がこのような目に遭わなくてはならないのかと、目に見えない何かを怨んできた。
わざわざ祐介にしなくても……他の誰でも良いじゃないか。平々凡々の自分を巻き込むなんてどうかしている。
発端は二月十六日に見はじめた悪夢。
そして約二ヵ月後に現れた少女を模った化け物。
すべてが蜘蛛の糸のように自分に絡みつき後がなくなるまで追い詰められ、最終的には捕食される運命なのか。
(冗談じゃない!)
そんなこと、あってたまるものか。
今まで延々と続いていた廊下の左側に唐突に階段が現れ、祐介は何も考えずそこを駆け下りた。保健室は三階、一階から外に出れば少しは状況が変わるかもしれない。気を抜けば踏み外して転落も考えられるほどに困憊していたが、そこは手すりに手を滑らすことで体勢を支える。
しかし暫くして祐介は息切れした呼吸を整えるために速度を落としていった。時間が大分経過してやっと気付いたからだ。目の当たりにした現実は絶望に満ちていた。
(一階に、着かない……)
本来ならばとっくに着いているはずの底が見えず、頭の天辺から爪先まで冷たいものが這っていく。
祐介はそこでようやく後ろに視線を配った。薄々感じていたのだが、背後から追いかけてくるような気配がずっと感じられなかったからだ。
思った通り、彼女の姿どころか物音ひとつしていなかった。安心は出来ないが、それだけでとりあえずは凌いだような気持ちになり、肩の力が抜けるようだった。
祐介はその場の壁に寄りかかり、ブルブルと震える足を手で叩く。荒い息を繰り返し吐きながら、そして動けなくなるうちに今度は今来た道を戻りはじめた。このまま下っていても、または止まっていても良いことがないことを知っていて動かないほど馬鹿でも酔狂でもない。
胸を摩りながら、まだ大丈夫だとグラグラする意識のなか考える。
(大丈夫だ。大丈夫)
きっと最後にはすべてが上手くいく。そのためには蹲っていては何もはじまらない。
恐くても、踏み出さなくては。
どうしても誤魔化しきれない怯えを、何度も大丈夫だと自分に言い聞かせて抑え込んだ。
そして先程の長い道のりが嘘のように、普通の距離をのぼって踊り場に辿り着いた。だからこそ不気味に思うも、扉にかける手を止められない。
開かれた先に何があるのか、祐介はわかっていたのかもしれない。
コンクリート状の地面に立つ彼女を見たところで大して驚きはなく、それは明るい青空の下に溶け込むように存在する姿が、今までのような違和感を覚えさせなかったからかもしれない。……街並を眺める紅色が、寂しげに映ったからかもしれない。
「春日……」
「――言ったよな」
振り向いたメイは、既に元通りの化物だった。
感情のない表情が祐介に向けられ、手を差し伸ばしてくる。
「迎えに行くって。探してたんだ、ずっと。ずーっと、な」
低い声音に、乱暴な口調。すべてが少女の型に嵌まっておらず、演技をしていたのだと今さらながらに気付く。あのふんわりした空気が消えて、殺伐とした態度は自分と同じ性を感じさせるから妙におかしい。しかししっくりともきた。
祐介は上擦りそうになる声を抑えながら首を左右に振った。
「なんで、だよ。俺はお前なんか知らない」
「私は知ってる」
近付いてくるメイから逃げようと一歩下がろうとしたが、背中に硬い感触が触れてぎょっとした。音もせず後ろの扉が閉まっていた。
「話したろ?……初恋は、叶わなかったって」
「っそれは俺じゃないだろ!」
ノブを回すもびくともせず、祐介の頬が引き攣る。
そんなとき横から伸びてきた手が頬を撫でてきて、その冷たさにひっと喉が鳴る。瞬間的に移動したとしか思えない、真後ろに立つそれを視界に映すのを本能が拒み、振り返ることが出来ず、祐介は硬直した。
細く滑らかな指が顔の形を確かめるように同じ箇所を何度も触れてきて、擽ったさよりもおぞましさで鳥肌が立つ。夜に見た「夢」と同じ、死体のような冷たさは確かな柔らかさを持っていて、祐介は屈んだ体勢のままそれを味わうことになった。
「なあ……何か、思い出さないか?」
「……ッ」
パンッと乾いた音が屋上に響き渡る。祐介はメイの手を叩き落し、横にそれて走り出していた。
心音がやけにうるさい。拒絶する気持ちとは別の何かが胸を巣食い、祐介のなかで変わりつつある。針に刺されたどころか鈍器で殴られたかのような痛みがメイの言葉に感化してか深まり、すぐに頭を押さえてへたりこんだ。
悪夢の衝動が胸に、昨夜の囁きが頭に、恐怖を超えた先にある普通なら届くはずのなかった何かに彼女は触れようとしている。
「アンタが目に隈を作るほど苦しんだのは、アンタの魂が、私の魂に共鳴したから」
すぐ先にあるフェンスの網目に指を食い込ませ立ち上がろうとするが、自分を覆う暗い影とガシャンッという荒っぽい音に動きを止めた。
「――ま、無理に引きずり出そうとしてるのは、私だけど」
フェンスが振動して躯に伝わり、振り返ると同時に両頬を包まれて。
何が起こったかわからぬうちに、唇が柔らかいものに塞がれて――祐介の意識は遠く離れたはるか彼方へと飛んでいく。
間近にある紅の瞳がひとつの言葉を語る。
思い出せ、と。