[6]
ずっと死にたかった。
ずっとずっと、独りで寂しかったの。
昔、日本には鬼という種族が存在していた。
彼等の外見的特徴は白髪に蜂蜜色の肌、そして紅の瞳の三点が一致しており、それだけでない異端の部分に人々は恐れをなした。
何より彼等を敬遠する理由は、不老不死。個人差はあるが、ある一定の年齢から決して老けない彼等に自分たちとは次元の違う点を見出し、いつしか鬼は除去する対象にされるようになった。
彼等は穏やかな気性を持つ群れない者、怪かしの術を巧みに使い異常な身体能力を駆使して人間たちから逃れ、人里離れた場所に潜んで暮らしていた。
そのなか、ある小さな村から少し離れた山奥に一匹の女の鬼が住んでいた。二十代前半に見える鬼は桜の木々を見上げている。その瞳にはなんの感情も見られなかった。
ここに来てどれほどの時が経ったのか、何もしなくても時間は勝手に過ぎていく。立派な桜が咲き誇る春の季節のときだけは、ほんの少しだけ不思議な心地が胸を揺らがせるのだが。
鬼の居所はしだれ桜が溢れんばかりに生えたところだった。今年も可愛らしい蕾を結び、美しいピンクの花々が垂れて咲く。
(今日もいい天気)
少し前までは凍え死ぬかと思うぐらいに肌寒かったから、眩い朝の光が降り注ぐその温かさに感じ入り、纏った着物の胸許を指で撫ぜた。
桶を両手に、草履から伝わる柔らかい土の感触を踏みしめて、川のある方角へ向かう。その後散歩ついでに食べられる物を探しにそこらへんをぶらつこうと思い至り、鬼はひとり首を縦に振った。川が近くなるに比例してせせらぎの音が鼓膜を震わせ、涼やかな気配に自然と肩の力が抜けていく。
しかし間近に迫ったそのとき、聞き覚えのない音が聴覚をついてはっとした。駆け足気味に木々を抜ける。
「っ」
そしてその先にあった光景に息を呑んだ。
川のほとりに一人の少年が倒れ伏していた。
それが彼との出会い――コウと初めて顔を合わせた瞬間だった。
気絶しているらしい少年は十四、五の外見をしており、かついだ躯は思ったとおり軽かった。ガリガリに痩せ細った体躯はそれほど健全に思えず、瞼を閉じた顔は疲労の影が濃く映していたからだ。
小屋に連れ帰った鬼は、布団に横たわらせた少年の顔を真横から見下ろしていた。
黒髪に象牙色の肌の特徴から見て、明らかに人間だとわかる。しかし気配が自分と似ている。それが物珍しく、そもそも久々の誰かとの接触に些か動揺していたのかもしれない。
鬼は少年が起きる気配を見せるまで一切視線を逸らさずに彼を観察していた。
「ん……」
「!」
長い睫毛がピクリと震える。鬼は思わず背後の壁まで尻込みした。全身をべたりとくっつけたまま身動きする少年を凝視する。
彼は目許を擦った後、薄く細まった目で辺りを見渡す。
そして互いの視線が重なった。
「ッアンタ」
勢いよく布団から飛び起き、床に手を這って近寄ってくる。鬼は体勢を変えぬまま不思議げに目を瞬かせた。肩を掴まれ、その力強さに華奢だがやはり男なのだと驚く。
しかしなにより驚いたのは、その瞳が鬼と同じ紅色だから。
「アンタ、アレだろ? 鬼なんだろ?」
「ああはい。そうです、けど」
間抜けな返事をして、瞬きを繰り返す。肩の手がますます力を強め、その顔がなんとも複雑な表情へ変わっていくのを鬼はぼんやりと眺めていた。
「やっぱりそうか。村の山奥には鬼がいるって話、本当だったんだな。会えてよかった」
「それは、貴方が人と鬼から生まれた子だから?」
人間と鬼は所詮交わらぬもの、彼等によって生まれた子供は必ず紅の瞳を特徴として表れることは周知の事実だ。鬼も初めて目にしたのだが、だからこそ彼の酷い見た目に納得がいった。ボロボロの着物から見え隠れする躯には、虐げられてきた痕が生々しく残っており、骨の浮き出たそれは普段からあまり良い物を口にしていないことを物語っている。
(人間達からの待遇があまりよくないんだろうなあ)
むしろよく今まで生きてこれたと褒めるべきだろう。
鬼の指摘が図星だったのか、少年はまっすぐだった眼差しを揺らがせて、顔を俯かせた。
「なんのためにここに来たの? わたしは貴方が期待するような何かを持っているつもりはないのだけど」
「っそうじゃないんだ。そうじゃ、なくて」
勢いよく顔を上げた少年はかぶりを振る。
「オレさ、このとおり異端児で、母さんが人間で父さんが鬼だったんだ。それで小さい頃母さんから色々聞いて、父さんの話をいっぱい。二人とももういなくて、村ではオレひとりなんとか住まわせてもらっている状態で、それで……」
言い表すのが難しいらしくもごもごと口ごもり、察した鬼は言葉を紡いだ。
「鬼を見てみたかった、ということなのかな?」
こくりと頷く彼に、鬼は心の底から不思議そうに尋ねた。
「憎いとは思わないの?」
「へ。……なんで」
「人間界で鬼の待遇はすこぶる悪いだろう。貴方もその影響を受けているはず。それを鬼のせいとは思わないの?」
ほとんどの人間が鬼を悪だと決め付け、憎しみに近い感情を抱く。それを悪いとは思わない。弱肉強食の摂理に従って、弱い者はいつだって自分より優れていると思う何かを持つ者に、なにかしらの劣等感を覚えるのは仕方のないことだから。だから彼が自分の出生に思うところがあっても仕方がない。
それなのに彼ははっきりと否定した。
「思わない。だって母さんは村のヤツラに虐げられても、父さんのこと、すごい幸せそうに語ってたから。だから鬼が悪いんじゃない、悪いのはオレと周りの価値観が違うことなんだと思う。……気付いただろ? オレの躯、ボロボロなの。こういうことがあっても、憎むというより、オレは悲しいって思う」
肩を外した手で自分の躯を摩る少年の目は翳りを帯びて、この世を憂いていることがわかる。鬼に対して憎悪がないことを知り、鬼は躯の力を抜いてほうっと息をついた。
しかしそれならば本当に、自分のところにわざわざ足を運ぶ理由がわからない。
「ならばわたしに何を求めている。生憎わたしはこのとおり鬼の外見をしているけれど、出来損ないの落ちこぼれだから見た目だけだよ」
鬼は種族の中でも一際麗しい美貌をしていたが、その代わり生まれたときからそなわっているはずの妖術や身体能力の類はかろうじて人間より優れている程度で、同類にすら疎まれる日々を送ってきた。よってそれらに期待を寄せているのならばお門違いというものだ。
ただ会いに来たというわけでもなかろう。
そう思うと、この少年を心底哀れだと感じた。
唯一の拠り所を無くしたとき、何を思うのかと。
「役に立てなくてすまないね」
「っちがう! オレはただ……っ」
しかし彼は違うと首を横に振り、そして鬼の両手を掴んできた。その手は温かかった。
「アンタに何を求めてるわけじゃないんだ。村の連中が言うように殺されたって構わなかった。そうじゃなくて本当に、ただ……会いたかっただけなんだ」
「……そうなのか」
じっと見つめてくる瞳は深い色を帯びて、かろうじて窓から差し込む光だけで照らされた薄暗い小屋のなか、やけに印象に残る。鬼より少しばかり濃いそれは、光加減によっては黒く見えなくもなく、不思議な色合いをしていた。
「アンタの名前は? オレはコウ、紅色と書いてコウだ」
「わたしは……」
口にしようとするも、一瞬思い出せず間が空く。
そういえば誰かと名前を口にしあうのもまた、久々のことだと。
「蘭」
遠い記憶を探り当て、鬼は自分の名を露わにした。
「蘭だ」
それから時折、蘭のところにコウが足を運んでくるようになった。
何をしに来るわけでなく、何故かと問うたびに会いたいからだと答えてくる。それが蘭にとって不思議でたまらず、しかしこれまで送ってきた日々が色づきはじめた気がした。それをどういう感情で言い表せばいいのかわからなかったが、しだれ桜のなかをたゆたう心情と似たそれを悪くないと思っていた。
その行為が、どのような結末を迎えることになるか、知る由もなく。