[7]
草花が青々として、夏が近いことを知らせる時期に事は起きた。
真夜中、外から灯火の明かりが小屋の窓から差し込んで、小一時間前から届いていた耳障りな音が鼓膜を震わせて、とっくの昔に覚醒していた蘭は正座をして正面の扉をまっすぐに見据えていた。その瞳には困惑といった感情は見えず、むしろ何もかもわかっていたことのように冷静であり穏やかだった。
これから何が起ころうとしているのか、蘭は過去に聞いたことのあるその音から察しており、逃げるという選択をとらずこの場から一歩も動かずにいる。
元々そういうつもりだったのにどうしてか起こらない現実に失望して、いつしかそのことすら忘れてしまい時間が経過していった。自ら人里に赴けばよかったのにわざわざ山奥に篭っていたことに深い理由はないと思っていたが、どうやら自分はそこまでの度胸はなかったらしい。だからこうしてそちらから出向いてきてくれたことは、感謝こそすれ他に何も浮かばなかった。
轟々たる雄叫びが、振りかざす凶器の金属音が、徐々に近付いてくる。耳を澄ませばすぐそこに、自分に牙を剥く大群が押し寄せてきて、蘭の首に食らいつくだろう。人間と鬼との関係なんて所詮そんなものだ。大昔に鬼狩りを経験し、なんとか逃げ延びたときに蘭は悟っていた。鬼とは孤独な生き物だと。コウと接してから自分のなかで何かが変化したかもしれないと思ったが、結局何ひとつ変わっていなかったらしい。
その証拠に蘭は今、逃げずにここにいる。
ガヤガヤと獰猛な男たちの声が身近に迫り、いつしか小屋が囲まれたことが知れる。蘭はそれでも微動だにせず、入口近くに座り続けていた。
鼻腔を掠める独特のにおいから暫くしてパチパチと爆ぜる音が響き、煙たさに幾度か咳を零す。燃え盛る炎の熱が伝わり、頬をちりちりに焦がしていく感覚をこれから味わえることに歓喜に似た疼きを感じて、その高揚感に胸が打ち震えた。
しかしそんなときだ。外から聞こえるある人物の叫びに正気に返った。
「……、……」
なんだか争っている様子で、必死めいて穏やかでない。
それだけで、あれほど頑なだった躯が動いていた。動かなくてはならないような気がした。
まだそれほど火の手が回っておらず、蘭は扉を開いて外に飛び出す。
「やはり思ったとおりか! まさかコウと鬼がひそかに会っていたとはな……! やはり鬼の子は鬼かっ」
「蘭……!」
小屋を囲む男たちの手に囚われたコウが正面におり、蘭は目を見開いた。
そうだった。そもそも何故、今頃になって蘭のところに村の連中が押し寄せてきたのか、そのきっかけを考えるべきだったのだ。
コウのような異端児は虐げると同時に監視もしてきたのだろう。蘭のことが知れるのも時間の問題だったわけだ。それで自分を殺しに来ただけならばそれでいい。しかしコウに被害が及ぶのはほんの少し……いや、かなり嫌だ。
蘭は農具を振りかざす彼等を見て、困った風に眉を下げた。
炎を背後に腰まで伸びた白髪が煌々と揺らめき、蜂蜜色の肌が赤みを帯びる。艶やかな鬼の美貌がさらなる凄みを増して、男たちは見惚れると同時に息を呑んだ。
「っ鬼め、おれたちを惑わすつもりだな!」
「アンタらが勝手に蘭に見惚れただけだろ! 蘭、逃げろ。アンタなら逃げられるだっ……ッ」
「黙れ下種が!」
暴れるコウの頬を容赦なく殴る男を見て、一瞬胸がざわめく。先程とは違う意味で高揚する自分に戸惑いつつも、蘭は首を傾げた。
「……何もしていないけど。わたしが逃げたらコウが殺されるんじゃないかな」
ぽつりと呟いた言葉は背後にある建物が燃える音に掻き消され、しかし真実をついているだろうと勝手に納得する。
周囲の男たちが手に持った武器を構えて、じりじりとにじり寄ってくる。蘭は両手を降ろした、まったく警戒心のない普段どおりの様子で小さく肩を竦めた。
このまま嬲り殺される前に、しなくてはならないことがある。そのためにわざわざ外に出たのだから。
「ねえ、取引をしない? 貴方たちに有益な素敵な提案なのだけど」
気軽な口調で差し出される問いかけに、男たちはふざけるな! と叫んだ。
「鬼の言うことなんて信じられるものか!」
「わたしは殺されてもいいんだよ」
しかし本当にどうでもよさそうに投げやりに言い切った鬼に周囲の人間は目を剥いた。
「けれどその混血児が殺されるのはいただけない。その男に鬼の血が混じっているとはいえ、わたしとはまったく無関係の人物だからね」
「蘭……っ」
かぶりを振るコウを見る蘭の瞳にはなんの感情も浮かんでいない。それでもコウは首を振り続けて否定を示した。
「関係ある、あるから。だから。お願いだから、蘭を。蘭を殺さないでくれ……!」
誰もコウの声を聞かず、蘭を凝視している。
皆知らずして支配されていた。怪かしでない、蘭自身に供わる存在感によって。
「嘘をつくにしてもこんな提案をするほどわたしは酔狂ではないのでね。その混血児を解放してくれるのなら、わたしはまったくの抵抗をせずに殺されてあげよう。平和的解決になると思うのだけどどうだろう?」
場が静まり返り、小屋が倒壊していく音だけが山を震わせる。
そのなか、コウを殴った男が蘭に向かっていった。その目は怯えを含みながらも多少は冷静な光を宿し、この多数のうちでの中心人物だと知れる。
男は肩にかけていた鎌の先端を心臓の前に翳して動きを止めた。厳つい顔が強張って、険しさが際立って映る。その顔がまっすぐに蘭を見据えた。
「――こいつが今後、お前以外の鬼と接触するかわからない」
「大丈夫。鬼は基本的に群れないし、ここら一帯わたし以外の鬼はいないはず。混血児は外見だけで他の人間と変わりないから生かしといても害はないよ」
「鬼の言うことを信じるほどおれたちはバカじゃない」
「それじゃあ仕方ないのかな。わたしが鬼ということは仕方のない事実だから。それとも大人しく殺されたら信じてくれるのかな。……困ったな、わたしはそれほど賢くないからこれ以上何も思いつかない」
どこまでも能天気な鬼の姿に何を思ったのか、男は少しだけ強張りを解かして薄く目を細めた。
「……コウがそれだけ大事か」
「わからない。けれどわたしのせいで誰かが死なれるのは気分のよいものではない」
「鬼のくせに人間みたいなことを言うんだな」
「オイ……ッお前らオレの話を聞けよ!」
「こら、暴れるな!」
足をじたばた動かして必死でもがくコウの姿が男の背後にあり、蘭は薄く笑った。それは彼女が久々に見せる、心の底から浮かべた微笑だった。
「――人間みたいなこと、か。そうだね、鬼が最期に気まぐれを起こしたと思ってくれればいい」
艶やかなそれは効果抜群だったらしく、間近で目にしてしまった男は硬直してしまい、また誰かが妖術だとわけのわからないことを喚きだす。蘭は心臓を狙う鎌に指を滑らせ、微笑を保ったままコウを視界におさめ続けた。
彼が自分を助けようとがむしゃらな姿を見ているだけで、何故だか胸が満たされた。
この不可解で温かい気持ちはなんなのだろう。
ガタガタガタアッと、とうとう小屋が全壊したことを知らせる大音量が辺りを響かせる。それを合図に、周囲の幾人かがこちらに駆けてきた。
蘭は考えを止め、そして目を閉じた。後悔はなかった。
「いやだあああああアアア……!」
暗闇のなか、赤い光が瞼の裏を照らし、コウの悲鳴があがる。
痛みは一瞬で、躯の所々を鋭く研ぎ澄まされた何かが貫通するのと同時に意識が遠ざかるのを感じた。
走馬灯のように、今までの記憶が甦り消えていく。感覚という感覚が徐々になくなっていくのがわかる。死ぬのだと思った。自分の人生にようやく終わりを告げられると安堵を覚えた。
鬼として生を受けたときから蘭は独りだった。
両親は落ちこぼれの自分を見捨て、この世界すべてが蘭を拒絶した。
寂しかった。
悲しかった。
辛かった。
長い年月を生きたとして何が残るというわけでない。敢えて何も残さないという選択肢もある。
蘭は普通以下の存在である自分が髪一本すら残してはいけないと考えていた。最後は人間の手によってむごたらしく死にたいと考えていた。何故そう思い至ったのかはわからない。きっと環境がそう思わせるようにさせたのだろう。
だから願いが叶ってよかったと、今度こそ永遠の眠りにつけると楽な気持ちになった。
「……っん、……ッ」
躯から生命力の源である液体が大量に外へ流れていくのに比例して、凍えるような寒さに襲われる。
「……ら、ん。蘭……!」
ノイズが混じるなか、外界からはっきりした声が聞こえてきて、頬に何かが滴るのが肌に伝わった蘭は閉じていた重い瞼をなんとか開いた。
彼は血塗れの格好で自分を抱いていた。
名前は、なんだっただろう。思い出せない。思考がまばらになっていく。
しかし深遠な紅の瞳が潤みきって大粒の涙をぼろぼろと零していく様は哀しいと感じさせるほどに綺麗で……蘭はそうか、とひとつの単語を導き出した。
蘭は、この少年を愛しく思っていたのだ。
彼だけが蘭を蘭だと認めてくれた、強い眼差しを持つ存在だから。
無意識のうちに惹かれていたのだと気付いたのは、死の間際になってのことだった。
「逝くな、逝くなよ……っアンタ鬼なんだろ! 人外の力使って生き延びてみせろよ……!」
生きているのが奇跡に近い状態なのだ、言葉を紡ごうに何も返せず、蘭は彼の姿を目に焼き付けようとじっと見つめた。最期に看取られることが、そして独りぼっちだろう彼を置いていくのかと思えば、謝罪が頭に浮かんだ。
(ごめんね、独りにしてしまうわたしを許して)
力尽きようとする蘭はその寸前に一つの光景を目にした。少年の背後で、先程の男がまさに鬼の形相をして、鎌を振りかざしている。
駄目、だ。止めてくれ。
しかし声は届かない。彼は気付かない。
そして殺意を持って振り下ろされた先は――
「っひ。う、うう……ッ」
覚醒した意識の先では、柔らかなぬくもりが祐介を包み込んでいた。頬を伝う涙がうつ伏せた顔からぼとぼととコンクリートを濡らし、躯は湧き上がる感情の波に呑み込まれて心底震え上がっている。
今の記憶は一体なんなのか、説明がなくとも魂が理解を示し、目からは止め処ない雫が溢れていく。
己の身に何が起こっているのか、知ってしまった。
「現代の数え方でいう二月十六日」
髪を梳く指が宥めるように動き、耳元で囁かれる声音は恐ろしいぐらいに優しい。
「アンタが……いや、私たちが殺された日だ」
死に際に味わった、愛しい人を亡くす絶望が、「生まれ変わり」である祐介の身にまで及んだ。出来れば普通の人間のまま何も思い出さず平穏に過ごしていければよかったのに、魂が目の前にいる鬼と共鳴し、そして今に至る。
何故自分がこのような目に遭わなければならないのかと怨んだが、そうではなかったのだ。
誰のせいでもない。
怨むものもない。
これはさだめられたことだったのだと。
血しぶきがあがり、彼の心臓を貫いた鋭い刃が赤くぬめる。
全身に被ったそれは温かく、そして傾いていく顔は瞳孔が開ききっている。
即死だった。
その映像が今ではトラウマの如く目に焼きついて離れない。
「この躯に生まれたときから、私には前世の記憶があった。……鬼とは、魂に影響を及ぼすほどの、深い業と関わりがあるらしい」
「……ッぐ、うう、ク」
「力をつけて、それからアンタをずっと探してた」
自分のせいで、彼は死んだ。それならばその記憶を持つ彼女は、その原因となった自分を怨みに怨んで殺しに来たのだろうか。
しかし大人しく殺されてしまうぐらいには過去に囚われ、身動きすら出来ない。止まらない涙を流すことしか出来ない。
「何度も言ったよな。……初恋の人だって」
抱き寄せてくる腕があまりにも優しくて、殺されるかもしれないというのに、大切にされていると勘違いしてしまいそうだ。
「――転校したと見せかけるために。クラスのさ、アンタの隣の席の子。どうしたと思う?」
顎に手を添えて顔を上げさせられ、視界が明るくなる。間近にある顔は、歪みに歪んで、修正不可能の狂気を孕んでいることが知れた。
「……殺したよ。だってアンタの隣、独占してたんだから。手元が狂っちゃって、つい」
(ああ)
その回答を聞いて、腹の底に冷たいものが降り積もっていく。
それは親しくもない、ただ隣の席だったために殺された少女に対する同情か、それとも目の前の鬼に対する憐憫か。どちらにせよ哀しかった。生まれ変わったのならば、自分のことなど忘れて歩んでくれればよかったのに、未だに自分なんかに執着する姿をなんといえばよいのか。
祐介は言葉の代わりに、華奢でありながら恐ろしい力を秘めた躯に震える腕を伸ばし、その背中に回した。
前世は確かに恋という感情だったものは、今はけっしてそんなものでなく。湧き上がる想いは同情とも違い、どの言葉もあてはまらず複雑めいて絡まり合う。
しかし目の前にいる彼女のそばにいたいと願うこの気持ちだけは本物だった。
「……紅……」
昔の名前を呼んでやると、細い腕が首に回され抱き返される。そしてはっきりした口調で伝えられた言葉に、祐介は潤んだ瞳を閉じた。
――つかまえた。
一生離さないから、と付け加えられた台詞は、きっと本当になるのだろうと、不思議な心地を味わいながら祐介は静かに受け入れるのだった。