Round-U/010


 ――飛び、降り……たあああっっ!? 
 風を切り地面に急降下する状況に、鴇夜は内心悲鳴をあげた。
 ウサギを狙っていたかと思えば、突然ついて来やがれと軽々と自分を担ぎ上げ、更に天井の高い二階から飛び降りるという常識外れの行動に走る男。そのような相手に反抗したところで無意味だと思わされるどころか、紐なしバンジーという危機に陥り気分は葬式だ。そもそもここに来てから未だに治まらない頭痛に悩まされているというのに、逆さの体勢でのこの浮遊感は心身共にかなりきつかった。
 と、あれやこれやと考えている内に、地面衝突まで一秒にも満たないところまで差し迫る。
 叩きつけられる、と思わず目をぎゅっと瞑った。
 しかし思ったより衝撃は少なかった。
 ズン――と重圧的な音が地べたから響き渡る。地面に着く寸前に背中に回されたもう片方の腕に支えられたおかげで、肩に食い込んだ腹への負担はそれほどなかった。僅かに噎せ返る間に、男はなんてことないとばかりに誰かに声をかけている。馬のいななきが耳に届き、考える暇もなく身体が浮いた。
 鴇夜がこの体勢から解放されたのは、一頭の馬に乗せられた時だった。
「ぅわ……」
 鴇夜は本物の馬を見るどころか触れるのも初めてだった。未だにセーラー服の格好なので、スパッツの長さから外れた太腿辺りに生暖かい茶色の薄毛が触れて、なんとも言い難い擽ったさを覚える。
 男は後ろの鞍の部分に跨り、鴇夜を抱き込むように手綱を手に取って辺りを見渡す。真っ赤なゴーグルの薄いグレーに阻まれて、奥の瞳はよく窺えないけれど、その口許は若干不機嫌そうに歪められていた。
 外は長閑な野原が一面に広がっており、遠くには小さな家々と畑がちらほらと見える。騒がしい神殿らしき荘厳な建物周辺では、そこに住んでいると思われる一般人らしき姿が少なからず集まりつつあった。彼等は怯えの中に若干の好奇心を混じらせて、入口から出てくる衛兵達を遠巻きに眺めている。そのなかにはこちらを訝しむ視線も含められており、鴇夜は改めて現状を確認した。
 自分を捕獲する彼等は明らかにこの神殿を襲撃した首謀者の一味であり、神殿内部では相当の修羅場が展開されているはずだ。その収拾をつけるのに衛兵が走り回り、外からはっきりと窺えないけれど異変が起きていることぐらいは緊迫した空気から容易に察せられる。何より鴇夜の格好は――後ろの男も含めて、彼等の服装を見るに明らかに奇抜だ、これでは不審者を自ら名乗っているも同然だろう。
 頭痛を堪えて考えられるところまで展開させた思考を打ち切り、鴇夜は背後の男に話しかけていた。
「あのさ……」
「アァ?」
 胡乱な返事が男の口から発せられた。先程からひしひしと感じてはいたのだが、この男は秋人と同じ部類に属しているように思える。少なくとも短気であることは間違いない。
 鴇夜がそのようなことを考えていると知る由もなく、男はもう一頭の馬に乗る仲間らしき中年の男に何やら咎められていた。何を言っているのかは依然として不能だが、時折鴇夜に寄こされる視線から無関係とは言い難い。話を終えた男は、決まり悪げに悪態を返しつつも鴇夜の方に向き直ると、不機嫌なのは相変わらずのままで渋々と口をきいた。
「んで、なんだよ。どうでもいい内容だったらその脳味噌かち割るぞ」
「それは困るけど。とりあえず僕の格好かなり目立つと思うんだけど、それっていいのかなと思って」
 そう告げると、男の目付きが奇妙なものでも見るようなそれに変わった。
「……お前、変わった奴だな」
「そうでもないと思う」
「敵かもしれねぇヤツに助言するなんて変わってんに決まってんだろ」
 男は自分の上着を脱ぐと、鴇夜に着るように指示する。鴇夜は素直に従いながら、彼の言葉に深い納得をした。
 鴇夜としては、自分の立場がいまいち理解しきれていない上で、彼等が今のところ自分に害をなす気はないと、ウサギとのやり取りから察していたからであって、それほど驚くべき行動でもないのだ。更に言えば、足手まといの自分を連れ去ろうとする辺り、何らかの事情が絡んでいると踏んでいた。
 思えばこれはチャンスといえなくもないのだ。
 ウサギはこちらに連れてきた張本人であり唯一約束を交わした者だ、鴇夜を捕らえるこの者達よりは遥かに信用に足るだろう。しかしウサギは上の意向でと言っていた。彼女に逆らう意思はなく、命令が下れば鴇夜との口約束など簡単に反故される可能性も想定していないわけじゃない。信じたいなどとお人好しめいた感情論に走る気もない。
 上の指示に従う彼女についていくのは正直、自殺行為だと思っていた。
 あの肉だるまが良い例だ、死んでしまった人間を悪く言うのは気が咎めるけれど、彼女の上司に当たる人物像が愚か者だらけの巣窟であると思わせられるには充分な素材だった。何処の世界も社会構造が入り組むと複雑めいて醜い争いが絶えないものだ。
 そもそもこのような物騒な世界に鴇夜を強制連行した連中を信用できるはずがなく……つまり、今のところ誰の言葉も素直に耳を貸せなかった。ウサギの場合、短期間観察した限り嘘をつくには頭が足りないというより、何も考えていないような無機質な印象が根付いたからこそ、願いを叶えるという言葉は少なくとも嘘ではないと捉えたのだから。
 鴇夜はこの世界の常識を知らない。だから殆どは成り行きの運任せでしかない。
 ――つまり、はじめについていく人間を間違えたらえらい事になるんだよね。
 果たして、この男達が鴇夜に最低限の幸運をもたらすかどうか、冷静に見極めなくてはならない。
 と、神殿の方から、ピィ――と高らかな笛の音が響き渡った。男は神殿を見据えながら何かを呟き、そして鴇夜を見下ろす。
「その様子じゃ馬には慣れてねぇみてぇだしな、長時間移動すっから舌噛まねぇように口閉じとけ」
「え? うあ……っ」
 鴇夜が返事をする前に、男が馬の腹を蹴った。
 黒茶のたてがみを靡かせて、馬が勢いよく走り出す。女装が幸いして落馬する恐れのある体勢は避けられたけれど、震動の激しさと凄まじい速度に憔悴しきった意識が一瞬飛びかけた。馬の長い首と深い緑を前方の視界に映し、鋭い風の波を肌に感じて、鴇夜の顔が苦痛に歪む。
 蹄が力強く地面を蹴り、二頭の馬が神殿の背後に広がっていた森の中を駆け抜けた。
 お伽話によく見られる騎士がお姫様を抱いて馬を駆るロマンティックな光景を、男同士といえどこうして実体験しているわけだが、所詮は作り話なのだと悟らずにはいられない。ロマン以前に、現代人の柔な身体は筋肉なんてないに等しいのだ。臀部が痛み、呼吸をするのもやっとで、男に借りた上着を無意識に胸元に掻き寄せつつ、喉元までせりあげる呻き声を抑える。
 そのような半ば意識の混濁した状況下、空気を切り裂き、自分達の横を長細く鋭利な何かが通り過ぎた。引き続いて、早急に複数の矢が鴇夜達に狙いを定めて飛んできた。
「チッ……異世界人、屈んでろ!」
 男は手綱を片手に持ち替え、腰元のホルスターから一丁の銃を取り出した。自ずと馬を駆ける速度が落ち、後方で走る中年が前へ躍り出た。背後から追いかけてくる敵に気を配る男は、心底忌々しいとばかりに荒々しい動作で銃のグリップを左手におさめ、彼等との距離を測りながら口を開いた。
「異世界人、馬ってのは臆病な生き物でな、銃みてぇな大きな音をたてる武器を使用すれば驚いてどうなるかわからん」
「は、ちょっとそれって」
「だからもし撃つことになったら落ちねぇようどっかに掴まっておけよ」
 ――死んでもらったら困るからな。
 無情な忠告をし、男は再び馬を巧みに操りはじめた。座る位置を考えると、掴まる場所が限定的に太く逞しい首に吸い寄せられるのだけど、それを知った上で告げるのだからどれだけ性格が悪いのやら。鴇夜は背後からの攻撃と男の行動に気が気でなくなり、不安を殺すように息を殺した。
 そうして体力の消耗が激しい乗馬も、長い時間を経て緊張する腰の力が抜けると、少しばかりコツが掴めたような気がした。緊張するから余計な負担が掛かるのだ、気を抜きすぎても駄目なので適度に身体の力を抜き、手綱を握るわけでもなし大人しく身を任せる。既に物を頭で考える余裕もない程に疲労が溜まり、いつしか背後の敵を振り切ったことに気付いていなかった。
 生い茂る鬱蒼とした森を進む足取りは淀みなく、男達は鴇夜を連れて、橙の空が広がる頃に森を抜けたのだった。


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