Round-U/011


 足腰ががたついて歩くことすらままならず、根こそぎ体力を搾り取られた鴇夜は、独特の臭いに気をとられることなく、大量の藁の上に敷かれた毛布に倒れこんだ。少し離れた場所で、馬のいななきが聞こえるが、それすら睡眠に支障をきたさない。今日は硬い感触ばかり接していたためか、もさもさした感触も高級布団のような錯覚を覚える。頭痛は大分和らいでいたが、反面、身体的問題が浮上していた。
 現在、鴇夜達は何処かの小さな村に留まっていた。ちなみに彼がいるのは厩舎と呼ばれる、所謂馬小屋である。鴇夜を攫った二人と、この馬小屋の持ち主の対応からして、彼等が見知った仲だとは見当がついたけれど、それ以上は言語の壁に阻まれてわかるはずもない。
 ――今は、寝ることが最優先事項……。
 明日以降も乗馬で一日が潰れる可能性を考慮しておかなければ、もとよりない体力が持たない。動物特有の濃厚な臭いに覆われる中、真新しいのだろう藁の新鮮な香りを眼一杯吸い込んで、重い瞼を閉じた。
 と、出入り口の方角から颯爽とした足音が近付き、意識を落とす寸前の鴇夜の肩を揺さぶった。
「異世界人、寝たのか? 少しでいいから起きろ」
 引っ付いた瞼を半ば無理矢理開いた先、仄かな明かりを灯すカンテラを片手に白髪の男が鴇夜の顔を覗き込んでいた。
「……なに」
「これから数日の行動について簡潔に話しておく。何もわかんねぇままじゃ嫌だろ」
「ああ……」
 疲れているからまた明日にでも、と甘えを見せてしまうと、今後この男の口から語られる機会が永遠に失われるかもしれない。鴇夜は意識を半ば朦朧とさせながら、藁のベッドから渋々身体を起こした。寝転がったままではいつ眠ってしまうかわからない。
 どうやら周囲は男一人だけのようだった。飼育された馬の様々な鳴き声が、決して静かとはいえない狭い空間で響き渡り、二人の男は向き直る。
 男は真っ赤なゴーグルを、前髪と共に真上にあげていた。カンテラにささやかながら照らされたその双眸は――黒とも赤とも判別つかない、紅。ウサギと同色の瞳だ。魔力を孕んでいるかのような、見蕩れんばかりのルビーの輝きは、眠気からいくらか引き剥がす効果をもたらす。鴇夜は欠伸を噛み殺しながら促した。
「……ちゃんと聞いてるんで、どうぞ」
「異世界人、予定が狂わなければ明日を含め三日間、今日と同様に馬に乗りっぱなしだ。それと、」
「黒崎」
「何?」
「僕の名前は黒崎。異世界人と呼ばれても困る」
 ウサギと同様に敢えて苗字のみを名乗るのは、信用に足らない上にこちらの常識を知らないからだ。
 陰陽師か西洋の魔術か起源は忘れてしまったけれど、人の名前には力があり、多様な使い道があるため利用されるとろくでもない眼に遭うとか。例を挙げるとすれば、悪魔が顕著かもしれない。彼の本名を知り口にすれば、本人を捕縛することが可能だとか、一時期オカルトに関心を抱いた友人が嬉々として語っていたような気がする。
 日本での不可思議現象といい、壁を軽々と破壊したあの衝撃を振り返る限り、鴇夜の常識を超えた何らかがあると踏んでいる。それらを追求するのは、一旦落ち着いてからだ。そのような時が来るのかは些か疑問だが。
 ちなみに女装を解除せず性別を偽り続けるのも似たような理由からである。
「クロサキか。変な名前だな」
「お前は?」
「あ?」
「お前ともう一人の名前。知らないと何かと不便だしね」
 男は自分が名乗っていないことにようやく気付いたのか、器用にも片眉を上げた。
「俺の名は長ったらしいからイズラとでも呼べ。もう一人はアゴルスだ。で、話を戻すぞ。明日は朝日が昇ると同時に出る、だから存分に休んでおけ。後、テメエの格好は目立つ。だから今日貸した外套をずっと羽織っておくこと、服装を調達すんのは目的地に着いてからだ」
「うん、わかった」
 素直に承諾して早速寝に入ろうとする鴇夜を、初めて会話を交わした時と同じく怪訝げにイズラは眺める。視線に敏感な鴇夜はそれに気付いていたけれど、これ以上眠りを妨害されては明日持ちようがなく、そのまま視界を閉じた。
 暫くして向かいにしゃがんでいたイズラが移動する気配を見せ、案外近い場所に収まったのに多少くぐもった声で尋ねた。
「……イズラ、さん」
「イズラでいい」
「イズラ。ここで、寝るつもり?」
「アゴルスは厩舎の持ち主ントコにいる。だから俺はテメエの見張りとしてここにいる。わかったら寝ろ」
 カンテラの蝋燭が消されて、瞼の裏の仄かな色彩が褪せて暗闇が襲う。疲労困憊の鴇夜が起きていられるのはそこまでだった。太陽が昇る直前に叩き起こされるまで熟睡していた。





 三日間はイズラの宣言通り、馬上での時間がほとんどだった。
 食事は用意されていた物資から、保存性のきく干し肉や豆類、時々干し葡萄といった味気ない物ばかりで、腹を満たす行為と言った方が正しい。何より数日かそこらで馬に乗り慣れるはずがなく、筋肉痛で悩まされている。日が沈み休憩をとるたびに、鴇夜は夕食後すぐに地面に丸まっていた。
 彼等は人目を避けているらしく、初日のように人の集まる場所に必要最低限寄り付かず、遠回りしているようだった。立ち寄ったとしても、厩舎で馬を交換し即座に出発するといった繰り返しだ。あまりにスムーズに事が進むので、彼等が前以てルートの確保をしていたことは容易に察せられる。
 そうして順調といえる移動距離を稼いでいき、太陽が真上に昇った頃、鴇夜はイズラに肩を叩かれて、指差した先に視線を投げた。
「あれって」
 言葉を紡ごうとした途端、ぺちっと額を軽く叩かれる。そうだった、と言葉を濁らせる。馬で移動する間、暇なことには変わりなく、僅かながら余裕を見出すようになった空気の中で唐突に言われたの だ。
 ――こっちの世界の言葉を覚えろって、いきなりなんなんだろうな。
 しかし鴇夜自身も反論はなかったので、わかったと頷いた。
 アゴルスの他に神殿の連中の会話を聞く限り、日本語を扱える人は稀らしい。今のところウサギとイズラの二人しか見たことがない。
 それに鴇夜はこの世界を渡る前に、それらを想定していたので驚きはしなかった。アルトメリアに訪れて最初に抱いた感想でいう、外国に留学しに来たようなものだ。異文化、言語の壁、当たり前であり忍耐を必要とされる現実だ。
 イズラは以降、日本語を極力使用しなくなった。英会話と同様に、まずはリスニングを強化させようと考えた模様。とはいっても、前後で馬を走らせる彼等の間で交わされる会話の数はそう多くなく、まったく意味をなしていなかったりする。英語の場合、三ヶ月目でようやく耳に馴染み日常会話も然程苦労しなくなると聞くが、ここでは何処まで通じるのか。また鴇夜は何時まで滞在することになるのか。
「わかってるよ、こっちの言葉に馴染めってことだよね。けどイズラ、僕が一人日本語を喋ったところで聞き取りの方面なら何の問題もないじゃないか」
 生まれてこのかた日本を出たことのない人間に、日本語を意識の底から引き剥がせと言われてもすぐには無理な話だ。それに彼等から詳細な事情を聞くためには、暫く言葉が不自由な彼に日本語を切り離すというのは無理だと考える。かといって聞けるかどうかは、未だに自分の立場が不明のため半々の可能性なのだが。
 鴇夜ははあ、と浅い息をついて再び視線をイズラが指した遠方に向けた。
 濁りきった人工的で空虚な街並を見慣れた彼にとって、青々とした緑と、蒼天の空といった色鮮やかな景色がとても眩ゆく、力強い自然の鼓動が聞こえんばかりの澄み切った空気を纏い、常に張り詰めている神経が微かながら和らいでいく。自然と声音に柔らかみが増した。
「あれが、イズラ達が目指していた場所?」
 鴇夜の頭をぽんぽんと手が降ってくる。ウルヴァ、という単語が背後から聞こえた。町の名前? と尋ねるとまたもや頭を叩かれる。正解らしい。
 鴇夜の眼に映るのは、この世界で初めて訪れる町と呼べる場所だった。


 ウルヴァは特徴といえる特徴の見られない、けれど程よい活気に満ちた町だった。
 日本の実用性重視とかけ離れた明るい色彩の屋根と壁の建物、石畳を歩く人の表情は生き生きとそれぞれの仕事に精を出している。アルトメリアでの髪色は、鴇夜の黒からイズラの白、アゴルスの暗緑までバリエーションが広く、馬から見下ろす彼等はそれを普通のことのように受け入れている。イズラ達を一瞥する視線もなんの含みもなく、通りを歩く速度で進む中、若い女の子達がからかい混じりの冗談を投げて笑いながら去っていくのをなんとなしに眼で追い、ふと人気のある教師にはしゃぐ女子高生を連想した。
 イズラは宿屋に近接された厩舎に馬を預け、そこの主人に貨幣を握らせた後に、鴇夜の右肩に腕を回して歩き出した。あまりのさり気無さに反抗する間もなく、遊び慣れた男の一面を目にした気分で、披露されている側としては複雑な気持ちを味わう。
 一方、アゴルスは反対側に並び、にこにこと温和な笑顔でそんなイズラに話しかけた。頭上で会話が弾み、日本男子の平均身長を超えた彼等に対する空しさとは別に、アゴルスの声音に安堵に似た響きが混じっていることから、彼等の目的が一歩近付いていることを鋭く察知する。
「イズラ、アゴルス」
 不思議そうに見下ろす二対の眼差し。
「もうちょっとで目的地?」
 イズラがアゴルスに鴇夜の言葉を伝え、二人は肯定として首を縦に振った。
 彼等がその足を止めたのは、表通りを曲がり狭い小道を進んだ先の、日陰に覆われる民家の前だった。
 イズラは扉を小気味良いリズムでノックし、ズボンのポケットから取り出した何かを脇のポストに落とす。暫く間沈黙が広がり、そして音もなく扉が開かれた。
 イズラは鴇夜の肩から腕を外す代わりに左手を取って家の中に踏み込んだ。鴇夜はここ数日といえどもずっとスキンシップ状態だったためか、文句の一つも出ず相変わらずなすがままだった。
 家内は予想通り特に変わった構造でなく、ここに住んでいる人物だと思われる恰幅の良いおばさんを先頭に、廊下の右手にある部屋に入った。リビングらしき室内は、二対のソファにテーブル、壁側にはタンスに飾られた写真立てと、所狭しに設けられている。電気の通う文明じゃない上に地理的条件が悪いために、中を蝋燭で照らすしか手段がなく、一見したところ外国のホラー映画に出てきそうな陰鬱でじめついた印象を受けた。
 とはいっても、不審を問われる点は特に見当たらない。
 ――ここまで意味深長な行動をしておいて、何もないってことはないよな。
 仮にお茶を飲みに来たと告げられでもしたら、その場で二人を殴り倒す自信がある。
 しかしその疑念も無用だった。
 おばさんはアゴルスを呼び、二人でテーブルを縦に持ち上げる。それで作業は終わりじゃないらしく、床に敷かれた絨毯をぺろりと捲った。
「あ」
 鴇夜は思わず声をあげた。
 そこには、板目の床ではなく隠し扉と呼ばれるものが存在した。
 横からふっと鼻で笑う音が聞こえて振り仰ぐ。いつの間にかゴーグルを外したイズラが、鴇夜の驚く様子を愉快げに観察していた。赤黒い双眸は薄く細められ、口端を釣り上げた口許からは、嘲りは含まれていないようだが悪童じみたからかいが滲んでいる。鴇夜の顔はみるみる不機嫌なそれに変わり、彼の晒された二の腕を空いた右手で軽く叩いた。
 隠し扉の先は、室内の薄暗さを物ともしない闇色に染まる階段だった。
 イズラは背負った荷物からカンテラを取り出して内側の蝋燭に火を灯した後に、おばさんに向かい軽く手を掲げることで別れの挨拶を告げて階段を下りていった。次に鴇夜が、最後尾にアゴルスが続いた。
 全員が階段に踏み入れたところで、ギシギシギシ――と、 木の軋むような音が上から届く。どうやら隠し扉は閉じられ、前に進むことでしか道はなくなったようだ。前方のイズラが持つカンテラの明かりだけでは心許なく、鴇夜は人一人が通れるだけの狭い階段の両脇の壁に両手を沿わせながら足を運ぶ。
 と、数分も経たずして終着地点に辿り着いた。硬い地面をえ抉ったごつごつした階段から違和感を覚える程に滑らかな地面へ移ったところで、鴇夜は一点の光を持つイズラのすぐ傍まで距離を詰めて辺りを見渡した。
 暗闇に慣れた眼で眺めたそこは、洞窟と呼ぶには些か奇妙な場所だった。
「……ここってなんだろう。地下水路にしては水が流れる音が聞こえないし、洞窟にしてはごつごつしてないというか」
 予想していた通り、独白に対しての返事はなかった。相手は徹底して日本語を口にする気はないらしい。
 階段の通路と比べ物にならない広い空間を壁伝いに進む。左手に馴染む手触りもまた滑らかで、綺麗に削られているだけでなく、円柱のような丸みが均等な距離で設けられており、ここを造った人物の拘りが窺えなくもない。
「っぶ」
 と、前方を歩いていたイズラが突然足を止めた。周りに気をとられていた鴇夜は、見事その背中に顔をぶつける。
「何、いきなり止まっ……」
 自然と言葉が途切れた。
 突然だった。周囲がぱっと、電灯がついたかのように明るくなり、鴇夜は反射的に両手で顔を覆い隠していた。
 背後を歩いていたアゴルスが驚愕の声をあげ、イズラも同様に、しかし幾らか疲れたような響きで何かをぼやいた。鴇夜はいまいち状況が理解出来ず、混乱じみた問いかけと共に恐る恐る瞼を上げる。
「何をそんなに騒ぐことが……っ」
 そして言葉が最後まで続かれることはなかった。
 指の隙間から、白に近い灰色の壁に混じることのない、鮮やかな夕日色が飛び込んできた。
 一人の少年が、数メートル先の真向かいの壁に寄り掛かり、それどころか満面の笑みで右手をひらひらと振っていた。
 これほど近くにいながらまったく気付かなかった……発見した今でも希薄といえる気配を纏う少年を相手に、緊張が背中を走った。
 腰元まで伸ばされた赤みの強い茶髪を後ろで結い上げ、その瞳は外で何度も見上げた澄み渡る空色。整った方といえども地味な顔立ちは、釣りあがった眼つきのせいで相殺どころかやや人相が悪く映る。
 警戒心を露に睨みつける鴇夜をまじまじと見返す少年は、周囲の男達を一瞥すらせずにその唇を開いた。
「――こんにちはお嬢さん、お待ちしておりましたよ」
 朗らかな声で告げられたのは、アルトメリアで三人目といえる流暢な日本語であり、誰よりも丁寧な言葉遣いだった。


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