Round-U/012


 少年は壁から腰を浮かし、上品な身のこなしでこちらに近付いてきた。その間もその鋭い眼は鴇夜だけを捉え、決して逸れることはない。床、壁、天井の全てが光を帯びて、ここにいる全員の姿をはっきりと映し出す。
 発光。
 この表現が正しい。
 眩くも暗くもない絶妙な加減の光源を、滑らかな石を媒体に浮かび上がらせている。足元の陰影さえ、作ることは許されない。
 なんとも不思議な光景だ――鴇夜は、目の前で足を止めて右手を差し出してくる少年を強張る表情で見据えながら、どこかしら冷静な思考を働かせて全体を観察していた。
 ふわりと、少年は微笑する。目許が下がるそれだけで随分と印象が変わる。
「私のことはディーと。貴方のことはなんとお呼びすればよろしいのでしょうか」
 反射的に握手を交わす互いの手に視線を落とし、ややあって鴇夜は乾いた唇を開いた。
「僕のことは、黒崎と」
「そう、クロサキさんとおっしゃるのですか。素敵なお名前ですね」
「オイ、ディー。アゴルスが困ってる。俺らと違って言葉が理解できねーんだ、早く指示を出してやれ」
 隣に立つイズラが、ひどく面倒臭げにアゴルスの方に顎を遣る。確かに、この場で日本語が通じないのはアゴルスだけだ。イズラの言う通り、所在なさげに立ち尽くしている。
 ディーは、ああ、とアゴルスに視線を流し、有無を言わさぬ口調で何かを告げた。アゴルスは慣れた態度で礼を取り、イズラの荷を受け取って立ち去ろうとする。どうやら立場はディーの方が上らしい。
「っアゴルス」
 鴇夜は咄嗟に呼び止めていた。振り返るその顔は、とても驚いていた。後ろで括られた暗緑の髪が緩やかに靡く。
 鴇夜は気難しげな表情を僅かに崩し、そして静々とお辞儀をした。
「ここまで、ありがとう、ございました」
 攫われた立場としては、お礼などおかしいかもしれない。言語が通じない上に移動中もイズラとばかり一緒にいたから、相手がどのような人物なのか把握しきれてもいない。しかし鴇夜を映すその眼差しは、春の陽だまりのように温かい、波風立たぬ穏やかなものだった。鴇夜の周りは常に干乾びて、触れると芯まで冷えていく悲しみに満ちているからこそ、鮮明だった。
 ぽん、と頭に乗る手の重みに、思わず安堵の息をつく。
 だからといって、ただ単純に嬉しいと喜んでいるわけでもない。もしアゴルスが今後、彼の利害と一致しない側だと知らされようとも、一昔の思い出の蓋を開くきっかけにはなったから。
 ――母さんと雛夜が、黒崎の二人が心から笑いあう日々を取り戻す。
 結局、鴇夜はそのことを念頭にしか物事を考えられないのだ。
 アゴルスの靴音が遠ざかり顔を上げた鴇夜は、苦味の含んだ各々の表情で迎えられた。
「変わったお嬢さんだ。事情はもちろん話していないのだろう?」
「ああ。あっちの世界の住人だから警戒心が足りねーのか、それとも単なるアホなのかよくわかんねぇ。ちなみにオレは両方だと考えてるな」
 わざわざ日本語で口にする辺り、微妙に性格が悪い。
「言葉は通じなくともアゴルスは紳士だったからね。女性に対する……いや、年齢差を考えると子供に対する扱いかな。とてもよくしてもらったから感謝してるんだよ」
 誰かさんとは大違いだ、という皮肉は心の箪笥に閉まっておいたが、彼等は察知したようだ。ディーは密やかに笑いながら、握手とは別に左手を取って歩き出した。
「そうですね、イズラは気遣いとは程遠い性格をしているので貴方を大層困らせたでしょう」
「うるせーな、俺にしてはかなり優しくしてる方だぞ。そこらの女より細っこいし、何より将来が期待できそうだしな」
 鴇夜達はアゴルスが去った逆方向を歩きはじめる。階段を大分下りた先にこの通路があったことから、ここは地下層なのだろう、若干薄ら寒い。後ろを歩くイズラの剥き出しになった二の腕が今さらになって気になる。悪い悪いと思いつつも外套を返すきっかけが掴めずにいたが、今ならちょうどいいのではなかろうか。大方、ここが目的地だろうし。
「イズラ、寒くない? これ返そうか」
「んぁ? ああ、いい。そのまま着てろ」
しかしイズラはホルスターに添えていた手をひらりと振って、あっさりと拒否を示した。それどころか「それより寒いならテメェが着てろ」と言う。口も態度も悪いけれど、本当は優しいのだと、ついつい絆されそうになるのはこういうときかもしれない。
「それより今のうちに頭ン中で聞きたいことをまとめておけ。全部コイツが説明してくれる。それが終わったらまた日本語とはオサラバだしな」
「日本語って」
 鴇夜は訝しげに眼を眇める。
 ――日本を、知っている?
 アルトメリアの人達が稀に日本語を扱うのは、なんらかの理由があると踏んでいた。そしてイズラはなんなく日本語と口にした。鴇夜の世界を認識しているという確信へと繋がる、当たり前とばかりに告げる、その言動。不可思議な力を使うウサギだけじゃない、彼等が知っているという事実は、どのような意味をもたらすのか。
「日本語って、お前たちは、僕が住んでいた国を知ってるの?」
 答えは、隣に並ぶ少年の肯定だった。
「日本、ですよね。私達は知っていますよ……貴方がこの世界のどこでもない場所からいらしたことも、すべて」
 通路の終わりは行き止まりだった。というよりも、向こう側があると認識しづらいともいえる。同等に明かりの役割を果たすそれは、壁と違和感なく同化しており、かろうじて扉の形をした切れこみが薄らと見える。
「ちょっと離れていてくださいね」
 ディーはそこに手の平を添わせて、深呼吸をする。そしてそのまま前へと押した。本当に軽く、力を入れたと思えぬ軽快な動作で、ゴゴゴゴゴゴ――と、数メートルもの分厚い扉の半分を開けきった。鴇夜は驚愕に眼を見開いた。
 床が擦れる音は重圧感たっぷりなのに、それをいとも簡単に開けた本人は息一つ乱さない。筋肉隆々どころか袖から覗く手首の細さは、鴇夜より僅かに太い程度なのに、このようなことを為せるとは普通ならば到底無理だろう。
 そう、普通ならば。
 しかしそんなことを考える余裕も、予想外の展開にすべてが吹き飛んだ。
 人だ。
 大勢の人が、扉を抜けた大広間のような空間に密集していた。
 老若男女と様々な年齢層が、こちらを凝視めている。全体が異様な迫力に包まれており、我知らず唾を飲み込む。大量の視線が突き刺さる中、扉を開けたディーは平然どころか晴れ晴れとした態度で、鴇夜に手を差し伸べた。そしてのうのうと告げる。
「私達がいる限りここは安全ですよ、クロサキさん」
「オラ、邪魔だ。さっさと行け」
「ぅわ!」
 背中を思いっきり押された拍子で、ディーと数センチの距離というところで危うく足を止める。間近にある釣り眼にまたもや声をあげて下がると、今度は背後に立つイズラにぶつかった。見上げた男は、眉間に盛大な皺を刻んでいた。
「なに遊んでんだ」
「遊んでないよっ」
 大体お前が押してきたんだろう。鴇夜の文句は、殺到する笑い声に掻き消された。びくりと肩が上がる。
 皆が張り詰めた緊迫感を崩して笑っていた。怒涛の勢いで歓喜が湧き上がり、中には涙を浮かべる者すらいる。戸惑う鴇夜の左手を引くディーの彼等を見る眼差しは優しい。
「貴方がいらっしゃったことをとても喜んでいるのですよ」
「はっ?……冗談はよしてくださいよ。僕はただの一般人ですよ」
 といいつつも、鴇夜は自分に注がれる熱い視線に気付いていた。都会で浴びていた外見に見蕩れる類とは微妙に異なる、言うなればスポーツで勝利した時の熱狂的な喜びに似ているような気がする。誰一人として彼を邪険に思っていない。それはイズラが彼を連れてきたことと、なんらかの関係があるのかもしれない。
 ディーは空いた左手をあげて笑顔を振りまきながら、群れる集を気にせず前へと進みはじめた。誰も彼も阻むことなく上手い具合に割れていく光景は、ディーを只者でないと確信に至るに充分だった。その後ろ髪にのみ視線を注ぐ。
 歓声に押されて辿り着いたのは、大広間から幾重にも枝分かれする通路のうち一つだった。どこもかしこも一面の壁が明かりの役目を果たしており、幻想的だとは思うけれど装飾的な要素は施されていないので、実用性を重視したのではないかと考える。
 だとしたらこの場所は一体なんなのだろうか……余程熱心に観察していたのだろう、再び三人になったところでディーが苦笑気味に尋ねてきた。遠くから未だに人々の楽しそうな声が木霊している。
「この建物が気になりますか?」
「え、ああ……そうですね。この世界ではこのような石が明かりを灯したりするのが普通なのかと思いまして」
「言葉遣いを崩していただいて結構ですよ、そのほうが楽でしょう」
「じゃ、ディーもそうして。僕は敬語を使われるほど偉い立場じゃないから、さっきからいたたまれなくてしょうがない」
 鴇夜の希望をディーは気安く承諾した。
「それなら遠慮なく。この建物は今では世界中の誰が手をかけても造ることは不可能なんだ、太古の遺産ともいう」
「遺産って保護とかされないの? 僕たちの世界では世界遺産条約っていうものが……ああ、簡単に言えばこういった遺跡とかが破壊や損傷に晒されてなくならないように保護するものなんだけど」
「俺らントコもあるっちゃある。が、あまり意味がないな」
「だからこそこうして利用できるわけだけど、っとちょっと待ってて」
 ディーは足を止め、等間隔に設けられる扉が開いたままの部屋に入った。手を離された鴇夜は続いて入らず、仕切りの向こうでごそごそと何かを漁る物音を聞きながら後ろを振り返る。ずっと後をついてきているイズラは、退屈げに欠伸を噛み殺していた。
「イズラ」
「なんだ」
 胡乱げな眼が鴇夜を見下ろす。その瞳だけでなく髪も同色でありながら、ウサギを心底疎んじていた場面を思い出す。二人の間にはなにかしら込み入った事情があるのだろう、踏み込むつもりはさらさらない。それよりも疑問に思うことがある。
 ――ウサギは、どうして易々と僕を渡したのだろう。
 女が男に力で敵わないにしても、抵抗すらせず上の意向に背くのは、ウサギの本意でないはずだ。
 しかしいくら考えても少しの間一緒にいただけの相手の考えが読めるはずもなく、無意識に小指に嵌る指輪を左手でなぞりながら、鴇夜は「なんでもない」とかぶりを振った。


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