Round-U/013


 ディーから渡されたのは、この世界の衣服だった。制服は悪目立ちすると指摘され、二人を部屋の外に追いやった後に、鴇夜は仕切りの向こうで着替えていた。狭い一室で、区切られた僅かなスペースには、数個の衣類タンスと縦長の鏡が並んで押し込まれている。
 前方をホックで留める白に近い薄茶の長衣に黒灰のズボン、若干サイズの大きい服の上から革ベルトを締める。黒檀めいた艶やかな黒髪を後頭部で高く結い上げ、鏡に自分の姿を映し出した鴇夜は微妙な顔をした。
 町で見かけた女性達は、基本的に裾の長いワンピースだ。それなのに何故、女だと思われているはずの彼が男の格好をしているのか。おかげで動きやすいけれど内心は複雑である。女性的で繊細な容貌と未成熟すぎる体型、そしてむなしいことにブラタンクトップのおかげでかろうじて性別を偽れているが、それもどこまで通用しているのか。実はバレているのかもしれない。長靴はサイズに合わせて今度買いに行くと言われたので、現在は履き慣らしたスニーカーのままだ。この格好と合わせるとかなりの違和感を覚えさせられる。
 綺麗に畳んだ制服に目線を落とし、若干薄汚れただけでなく皺だらけとなったそれを見ているうちに心が沈んだ。遠くに来てしまったのだと、実感の篭る吐息が零れる。
 後悔はない。強制とはいえ、鴇夜自身も選択したのだから前へ突き進むだけだ。しかし、だからといって元の世界への気がかりがなくなるわけじゃないのだ。
 深く考えてはならないとかぶりを振り、制服を胸元に抱えて部屋を出た。手の加えようのないことを考える暇があるなら、現状の進展を図るべきだろう。
 廊下では二人が雑談しながら待っていた。一回り年齢が離れている風な二人だが、気心が知れているのか互いに遠慮が見当たらない。彼等は鴇夜の姿を認めるととりとめのない会話を止め、彼を上から下まで注視した。その不躾な視線に晒され、やや顔を逸らして小声で問いかけた。
「……この着方で合ってるんだよね、というかこれって男物じゃない?」
「合ってるし、男物だね。違和感があるかと思いきやそう悪くないな。けどその色は君には地味かも」
「これで胸がもうちょっとあれば色っぽいんだがな」
「それじゃあ男装した意味がないだろう?」
 どうやら未だに女と信じているのだと悟り、自分の軟弱ぶりが拍車をかけているのだろうかという疑念が湧いたが、顔には出さなかった。
 ふたたび石の通路を歩き出す。今度は手を引かれることもなかった。今さらのような気もするが、男の矜持以前に接触行為はなるべく避けたい立場であるので仄かに安堵する。
 廊下と繋がる小部屋はどこもかしこも開けっ放しにしており、カーテンの仕切りで奥が見えない構造になっている。今はこの地下に住む全員が広間に集合しているのか誰とも遭遇しない。
「ねえ、なんでここの部屋はどこも閉じていないの?」
「能力者じゃねぇと開けられねぇからだ」
「能力者?」
 ディーが振り返り、鴇夜に見せ付けるように手の平を胸元で掲げる。空気がゆらりと揺れて――透きとおる炎が手の内から生じた。
 鴇夜は息を呑む。まただ、と思う。理屈で語れない現象がまたもひとつ増えた。
「火?……じゃなくて、どこからそれ」
「これが能力」
 陽炎を纏う右手がそのまま壁面に吸収されるように掻き消える。瞬く間の出来事だった。
「能力……?」
「この建物は、というか過去の遺跡はすべてこの能力が必要不可欠。それにこれを使える人間は限られていてね、だから扉は開けられたままになっている」
「その、能力っていうのは……」
「それも含めてあとで話すから」
 だから落ち着いて、と優しい口調で付け加えられて黙する。
 警戒を崩していないのはお見通しなのだろう。状況に流されているのはこちらに有利な条件で物事が動いていると判断しているからで、そうでなくては――逃げられるかどうかは別として、隙を見計らって離脱しようとしたはずだ。これまで接触してきた人間が善人か悪人かで比べるのではなく、あくまで利益になるかどうかを判断材料にしなくてはならない。
 長年培ってきた観察力と頑強な理性が鴇夜の唯一の武器であり、それがなくては丸裸も同然なのだから。心を預けることほど危険な行為はないと鴇夜は思っている。
 一本道の終点に、唯一閉じられた扉が存在した。広間と繋がる大扉と同様に、飾り立てるものはなにもなくひどく素っ気ない。ディーは軽々と押し開いて二人を誘導した。
 中は廊下に並ぶ部屋より広く、会議室の仕様になっている。中央の長テーブルを囲むように椅子が並び、その最奥に腰を下ろした。座高より遥かに高い背もたれにしな垂れかかり、深々と息をつく鴇夜にディーのきつい目許が僅かに和らぐ。
「話をはじめる前にお茶を出そう。かなり疲れが溜まった状態だろうから」
「うん、ありがとう」
 鴇夜は心の底から感謝した。
 今日に限っては、ここ数日より馬の速度を大分落としての短距離だったので、連日の疲労の蓄積を抜かせばさほど辛くない。足腰の関節が軋みをたて続けているが、きちんとした場所で休めばすぐに回復するだろう。
 とはいえ、ひどく困憊していることには変わりないのだ。全身の力を抜いて初めて気付くこともある。椅子という物の有り難みを実感しているところだ。
 部屋を出て行くディーを見送り、彼の隣で手足を組んで無駄に居丈高な白髪を胡乱げに見遣る。乗馬だけでなく荒事に慣れているのか、イズラから疲労という文字が微塵も見受けられなかった。
「……イズラはディーと同等の立場にいる人なの? やけに偉そうというかなんというか」
 鴇夜は基礎体力の違いを見せ付けられ、しかしそれも環境を振り返れば仕方ないかと諦めに似た溜息をつく。
「いや、主ではないけど雇われてる立場だから下といえば下だな。ま、他のヤロウよりは遥かに上だがな」
 それにしてはやけに傲岸不遜である。
「それになぁ」
 イズラはにやりと、傲慢な笑みをひらめかせて断言した。
「俺は偉そうじゃなくて、偉いんだよ」
「お待たせ」
 と、最悪なタイミングでディーがティーポットとティーカップを揃えたお盆を手に戻ってきた。イズラは王様気取りで「さっさと入れろ」と顎で促す。鴇夜は完全に呆れ返った眼差しを向けるも、すぐに陶器に施された繊細な柄に注目する。
 百合に酷似した花が蔓を巻きつかせ、白い花びらを咲かせた――。
 鴇夜は小首を傾げた。これと同じ模様を、つい最近どこかで見たような気がする。注がれる透明な茶色の液体を眺めながら、不可思議な色味を放つ瞳を伏せた。
「毒は、入っていませんよ?」
 ティーポットを傾ける手を止めて、横から囁かれた台詞には流石にぎょっとして、鴇夜は目を見開いた。
「ちがっ……そうじゃなくて、これ」
 反射的に怒鳴りかけるも、すぐに声音を潜めてティーカップを指で弾いた。
「……この柄が気になってたんだ。日本にある花と似ていてね」
 思い出すは彼に似通う女性。
 繊細で可憐な――弱い人。
 鴇夜の表情が曇ったことに気付かず、ディーはああ、と陶器の表面を撫ぜた。
「これはアルトメリアに最も多く咲く、国の象徴ともいえる花なんだけど……」
 不意に言葉を途切らせ、気難しげに眉根を顰める。
「今となっちゃ忌々しい宗教の象徴だけどなぁ」
 次いでイズラもまたあからさまな嘲笑を浮かべて、花のラインを長い指でなぞった。
「そこんとこを今からテメェに話すわけよ。嘆くしかないアルトメリアっつー国の現状をな」


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