Act.1-1


 晴れ渡る空に不似合いな静寂に満ちた空間に、少女は溶け込むように存在した。
 背中まである柔らかな栗色の髪を垂らし、砂糖菓子のような甘い顔立ちに硬質なノンフレームの眼鏡をかけて、受付のカウンターに座っていた。周囲の女子高生と違い、セーラー服のスカート丈を膝上に留めた格好は、見目に反して落ち着いた物腰をした少女に不思議としっくりと馴染む。取り立てて美人ではない――むしろ可愛いという方が造作的な意味では合っているのだろうが、彼女をよく知る人間は彼女を言い表すのに「美しい」という表現を使う。
 彼女の名前は香月雲雀、第二図書室にほぼ毎日居座る自称図書委員である。そしてその横で、カウンターに凭れるようにして地べたで胡坐をかく少年は武元亜子という……現代での偽名だが。
「ねぇヒバリーィ、こーぉんなだーれも来ないところによくも毎日いられるよねぇ? おれってば息が詰まりそうだよーォ。窮屈で眠たくなっちゃーうっ」
「ならアズ一人で散歩してくればええ。そのまま帰ってこんくてもわたしは気にしんし」
「相変わらずつれない! ヒバリッ仕事に忠実なのはいいことだけど君だって一応は花の女子高生なんだよっ? ちょっとくらい青春する時間を作りなよ!」
 その台詞にヒバリはどう見ても自分と同じ十代であり、肩まである黒髪を後ろで無造作に結う幼馴染を胡乱げに見下ろした。本日初めて手元の本から意識が逸れたのを、アズは険しい態度を一瞬にして崩して手放しで喜んだ。にっこり笑うときにできるえくぼにヒバリの視線が傾く。
「花の女子高生……青春……アズ、見た目に騙されそうになんけどやっぱ結構な年なんね。たまに忘れそうになるわ」
「少なくとも君よりは上だもんねぇ。けどおれの一族ではまだまだ子供の範囲なんだよ?」
「うん、それはわかっとる」
 彼の年齢を忘れがちになるのは、その精神年齢の低さを指し示しているのだが、それを親切に指摘してやるつもりはない。
 ヒバリは暫しアズを眺めた後、わざとらしく鼻を鳴らした。
「ふん。人のことは言えんけどえらい若作りしよって。気色悪い一族やな」
「人を年寄り扱いしないでっというか本当に口が悪いな!」
 どうやったらこんな娘になるんだか……とぶつぶつと愚痴るアズがヒバリの幼い頃から一番そばにいるのだから、自分がこのような性格になったのは彼が原因のひとつであるのは確かだ。そのことも敢えて口には出さず、ヒバリはまたも本に視線を落とした。
 アズはヒバリが生まれるずっと昔から生き永らえる長命の一族で、唯一人の主にすべてを捧げる自己犠牲甚だしい習性を持つ。ヒバリはその彼の仮の主という立場にあり、アズと同様固い理念に塗り固められた現代社会から明らかに常軌を逸した存在だろう。
 その彼女の唯一与えられた義務が、この第二図書室の管理だった。
 ヒバリ達が通う王乃宮高校は百年以上前に建設された私立校である。毎年七百を超える新入生が入学するマンモス校で、広い敷地内に新旧校舎の二つが堂々とそびえ立ち、その旧校舎の最奥という場所にあるのがこの第二図書室、別名資料室ともいう。
 狭い室内にぎっしりと並ぶ古い文献を求めて訪れる生徒はほとんどおらず、大抵が新校舎の第一図書室に足を運ぶ。そもそも新校舎が出来て生徒がそこに移されてからは、旧校舎自体を利用する数がめっきり減ってしまったのだ。だからここにいる生徒は極めて珍しく、この旧校舎の施設をきちんと把握している者もそう多くない。そしてそれを有効利用して、すっかり第二図書室の主となっているのがヒバリだった。
 いつもの如く太陽が沈みそろそろ学校が閉じる時間帯になって、ヒバリはようやくカウンターから腰をあげた。
 いつしかカウンター内に常備されるようになったブランケットに丸まり、アズはぬくぬくと眠っている。そのあまりにものんきな様子に腹立たしい何かを感じて、ヒバリは手加減なしで彼を蹴り起こしてさっさと部屋を出た。アズは寝起きのせいでない涙目ですぐにその背中を追う。
「ヒバリッいつも優しく起こしてって言ってるじゃん! なんで一度もゆーこと聞いてくんないのっ?」
「起こしたるだけありがたく思うがええ」
「それに上から目線! 可愛くない可愛くない可愛くないいいっっ!」
「そうかな? 僕から見た彼女はとても愛らしい人だと思うけど」
 ぴたりと、二人の動きが止まった。
 突然の第三者の介入に、ヒバリは驚いた様子を微塵もせず、むしろ面倒くさげに彼女達の背後に立つ生徒を見遣った。新校舎と違い電灯のついていない薄暗い廊下に、見知った顔が朗らかに手をあげる。
「やぁ香月、こんばんは」
「……こんばんは、会長」
 厄介な人が来たとばかりのややうんざり感を微塵も隠さずにヒバリは挨拶を返した。しかし彼は眩い笑顔を崩すどころか心底楽しげに笑い声をたてた。
「ははっ今日の君も一段とクールだね。こんな暗い廊下でも損なわない美しい輝きを放っているように僕の目には映るよ。明るいところならますますその眩い光をたたえているだろうね」
「わたしはピカピカ光る豆電球ですか」
 冷静なツッコミにも一切の動揺を見せず優雅に微笑むのは、この大人数の頂点に立つ生徒会会長にしてヒバリより一学年上の二年、そして王乃宮高校理事の息子である喜嶋綾人である。外国の血が入っているらしく、ロイヤルミルクティーの色合いをした髪に灰色の瞳をした美貌とそれに釣り合う頭脳を持つ彼は、偉い立場抜きでも全校生徒の憧れの的だ。
 そんな彼がどうしてここに……とは思わなかった。何故なら喜嶋は生徒会という仕事柄、校内資料が第二図書室にあることでよくここに訪れていたからだ。となると放課後に第二図書室にいるヒバリ達と知り合うのは必然的であり、入学して一ヶ月以上経た今では気軽に声を掛けられる仲にまで発展している……一方、ヒバリは時折顔を合わす先輩という認識程度だが。
「豆電球って! 面白い例えをするなぁ香月」
「そうですか。それで第二図書室に何か用事でも? 今日はもう閉じる予定なんですが」
 第二図書室の鍵を手に尋ねると、いや、と喜嶋は首を横に振る。
「最近ここに用事がないせいで香月と顔を合わす機会がないと思ってね。途中まで一緒に帰ろうと誘いに来たわけだ。この時間帯ならほとんどの生徒が帰宅しているだろうしね」
「はあ」
「会長ぉ、おれの存在を無視しないでくださいよーォ」
 と、二人の間に不自然なほどに明るい笑顔を浮かべるアズが割り込んだ。喜嶋はしらとした態度で「あれ、君まだいたんだ?」と飄々と言ってのける。
「えーえーいましたよどうせおれは存在感が薄いですよーぉだ! けどおれはヒバリに一番近い存在だからねっそんなむげにしてるといつか後悔しちゃいますよーォッ」
「大丈夫。将来その場所にいるのは僕だから」
「そう来たか! つーかそんな爽やかな笑顔で言い切られるとちょっとどころじゃないぐらいに怖いんですけどねっ!?」
「ふむ。長引きそうなのでわたしはここらで失礼しますね」
 二人の顔を合わすたびに行われるいがみ合いを尻目にヒバリは他人事とばかりに歩き出した。途端に彼等は手の平を返し、ヒバリに取り入るように両脇に並んだ。
「つれないな香月。で、一緒に帰ってもいいんだよね?」
「ご自由に」
「もーおいてかないでよヒーバーリィ!」
「とってもウザウザですねアズさん」
「なんでおれにはその反応! これが俗に言うツンデレってやつ!?」
「というか二人とも、わたしを挟まないでもらえません?」
 長身の二人に見下ろされることがいかに苦痛に感じるか。
 女子の平均身長より遥かに低い彼女は低い声音で言った。だがそれもギャーギャー騒ぐアズの声に掻き消されてしまい、ヒバリはますます不貞腐れた。
「アズ、わたしから十メートル範囲内に近寄んな」
「ええなんで!」
「ははは、君が絶縁される未来は近いね」
「会長が言うとシャレに聞こえないからいやあああぁーっ!」
 とうとう悲鳴をあげるアズを華麗に無視し、ヒバリは朝昼とは打って変わって静まり返る学校を去る。
 ヒバリにとっての非日常である日常は、この日を持って最後となった。


 ヒバリの祖先は『あちらの世界』ではそれはもう高名な魔術師だったらしい。
 御伽噺のような夢物語のような現実味のない内容は、もとより冷静な思考を持つヒバリには到底信じられるものではなく、両親から聞かされるたびに与太話だと受け流していた。
 が、ある日を境にその考えは一変した。
  十二歳のある日のことだ。中学にあがったばかりのヒバリは、生まれた頃から実の兄弟以上にそばにいるアズと共に曽祖父と顔を合わせる羽目になった。
 ヒバリは自分に曽祖父の存在がいたことにひどく衝撃を受けた。しかもその正体が得体の知れない不気味なもので、現在は外国に移り住んでいるというその曽祖父は、とうに百を超えているはずなのにその見目は三十代前半の男盛りだった。両親よりも遥かに年上なのに若かった。嘘だろう、みんなして自分を騙しているのだろうと憤怒するも、それも嘘の下手な両親の曽祖父に対する自然すぎる態度で引っ込んだ。
 もしこの話が事実なら奴は妖怪だ。自分の曽祖父は妖怪だったんだ。子供心に本気でそう思った。
 そして彼から聞いた話はどこぞのファンタジーですかと尋ねたくなるほど冗談が過ぎる内容だった。
 はじめに暴露されたのは、アズが人間でないことだった。
 妖怪ジジイの出現だけでなく幼馴染が人間でないならなんなんだと思い隣を見れば、いつの間にかアズはいなかった。その代わりに一匹のトカゲがちょこんと居た堪れなさげに床に足をつけていた。
 黒い鱗を持つ、トカゲにしてはかなり等身大で、奇妙なことに小さな翼を生やしたそれは、なんとアズだった。
 ヒバリ、と泣きそうな声色で自分の名前を呼んだのだ。それだけでまぎれもなく自分の幼馴染だと確信してしまった。
 自分と同等の大きさのそれに、夢見がちな両親を反面教師にそれなりの常識を持ちえていたヒバリはかなりのショックを受けた。しかもそのうえで聞かされたさらなる真実に、単なる女子中学生だったヒバリの常識は今度こそ崩壊した。
 ――お前は、私と同じ魔術師の素質がある。私なんかよりもずっとな。
 その証拠がアズだという。
 しかもトカゲではなく空想上に存在するはずの龍であり、特にアズをはじめとするとある龍族は、自分の相方を求めて一定の年齢を過ぎると世界中を渡り歩くという。相方というのは、簡単にいってしまえば自分が生涯を捧げるべき存在で、その判断材料の根本には魔力が関わっているらしい。
 そのアズがヒバリを選んだ。
 龍は己の直感で自分の主を見出す。それは侮れないものらしい。
 ――ヒバリが赤ん坊の頃からアズ君は目をつけた。アズ君は私の龍の子供でね。そのとき必然の縁というものをとても意識したな。ヒバリは覚えていないだろうが、赤ん坊の頃は器が定まっていないから特に魔力のコントロールができない状態でな。空中をふわふわと飛ぶわでっかい家具を浮かべるわでそれはもう大変だった。
 だからヒバリの小さな頃はよくそっちに顔を見せに行ってたんだ、と微笑む前方の曽祖父から周囲に視線を巡らせる。横に立つアズが細長い頭を垂れるところや、ヒバリの後ろで苦笑している両親を見て、ああこれは真実なんだ……とようやく少しばかり信じる気になった。
 疑心暗鬼であたっても、龍の姿をしアズ自身を否定することはできないからだ。
 アズは自分には絶対嘘をつかない。
 それだけはヒバリはよく知っていた。
 だからといってその衝撃は果てしなく大きく、数日もの間、常に冷静沈着のヒバリを部屋に篭らせることになったのだが。
 その後ヒバリは魔術の勉強を強要されることになった。このまま放置していては、暴走して危険を引き起こす恐れがあると曽祖父に断言されてしまったからだ。
 おかげで高校にあがるまでは、それはもう中学時代をうろ覚えにさせるぐらいの多忙な日々を送らされた。
 数々の魔術に関する書物を渡されるだけでなく、きちんと中身を把握しているかその内容についての論文の提出を義務とされ、また休日には基礎体力作りという名目のもと数々の武術を身体で覚えこまされ、それだけでもうら若き乙女には十分きついというのに学生生活を疎かにしてはならないと勉強も怠れなかった。常識から外れた世界を学ぶのはそれなりに楽しかったが、曽祖父の奇想天外ぶりについていけないというのが本音だった。
 けれどヒバリの血の滲むような努力もあって、なんとか基礎課程を終えて解放されたのは高校入学式前日であり、命じられた通りに王乃宮高校に合格したときは心底安堵した。だがそれもやはりというべきか裏があった。
 ――ヒバリの教育も高校にあがるまでに無事終わったし、私はまた旅に出る。ちなみに王乃宮高校では私と同じ魔術師の家系が理事をやっているから、なにかあったら頼るといい。それと、ヒバリには私の代わりにしてもらわなくちゃならないことがある。
 そして引き継がれたのが第二図書室の鍵と、とある特殊な魔術だった。


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