Act.1-2


 六月初旬だというのに気温はすっかり夏に近く、じっとりとした熱気が教室内に漂う。
 体育の授業を終えた後でのむさ苦しさといえば、普段の三倍増しだ。しかもその内容が男女混合マラソンとなれば、なおさら。
「あんた部活に入ってないのによくもまぁそんな平気な顔してるよね……」
「慣れとるし」
「慣れてるって、あんたってホント意味わかんないわ……」
 中学時代に培った体力を損なわないように、毎日早朝マラソンからはじまり腹筋、背筋、腕立て伏せ、そして武術の基礎を一通り。もちろんアズも付き合わせている。彼の場合、マネージャーのような役割だが。
 高校で数少ない女友達の岩瀬美輪子は、普通の女の子らしく隣の席でぐったりと机にうつ伏せていた。半数以上の生徒がその状態であることに、自分も昔だったら同じ様子だったろうなと僅かに目を宙に彷徨わせるも、すぐに机に広げられた文庫本に視線を戻す。
  学校で読むのは、魔術とはなんら関係ない本だ。本当ならば魔術の本を読み耽りたいところなのだが、その文字は『この世界』では使用されていない言語が扱われており、もし誰かに覗き込まれたりでもしたらややこしいことこの上ない。
 曽祖父から解放され、ある程度の自由が与えられたといっても、まだまだ修行中の身であることは変わりない。百歳を超えた余裕綽綽の妖怪ジジイを一度でも見返してやりたいという念もあった。
 魔術師は魔力を秘めた器により大きな差異があるらしいが、彼等の総合的な強さは膨大な知識、豊かな独創性、そしてそれらをまとめあげる構想力も含まれる。体力云々については、魔力を使用する上でいくらか有利になるだけで、普通の魔術師は自分の身体をそれほど鍛えないらしい。
 現段階でのヒバリに必要なのは、それらすべてであり何より経験である。
 ――魔術師といっても曽祖父以外の魔術師に会ったことないから、自分の力がどれほどのもんかわからんのよな。
 曽祖父以下は魔術師の才能を受け継がなかったため一般人と変わらず、アズに至っては龍族であって魔術師ではない。この学校の理事が魔術師の家系だと言っていたが、それもどこまで信じていいのやら。だからその息子である会長にこれらを臭わせる話題を振ったことはない。となると結局頼れるのは、癪ではあるが曽祖父のほかにいないわけだ。
 そんなことを鬱々と考えているなか、横からふくよかな手がずいっと伸びてきて、ヒバリは思わず仰け反った。
「っなん?」
「ねぇヒバリィ、なんかお菓子持ってない? 疲れたときって甘いもんって言うじゃない」
 どうやら体力と同様にお腹も限界を迎えたらしい。
「あーキシリトールならあるけど。いる?」
 鞄から取り出そうとする前に、速攻の拒否が入った。
「うえぇ〜ミントじゃんそれっ、全然お菓子じゃないよぉ。ありがたいけどいらない〜」
 短い茶髪を掻き回して顔をあげた岩瀬は、信じらんないと呟いて丸っこい顔をくしゃりと歪める。
「残念だけどミント苦手なんだよね。あぁん、今日に限ってお菓子忘れたのよあたしっ」
「普段はちゃっかり持参しとんもんなミワ」
「そうなのよ! そのおかげで禁断症状だわ。学校帰りになんか買いに……あっそうだ!」
 いいことを思いついたとばかりにその表情がぱっと輝く。
「放課後二人でどっか食べに行こうよ! 最近美味しいケーキ屋さんが近くでオープンしてねっ。そこのショートケーキのクリームのほどよい甘さといいふんわりとした生地といいとにかく最高なの!」
「あんなぁミワ、わたし放課後は……」
 岩瀬はヒバリの申し訳なさげな苦笑に気付いた途端ふたたび机とキスをした。
「うあ〜そっか行けないかぁ。そういやヒバリはいっつも放課後どっかに行っちゃうもんねぇ……」
 喜色満面なそれが瞬時にしょんぼりとするまでの、秒刻みでくるくる変わる百面相は実に感情豊かで可愛らしい。ヒバリは自分と正反対な性格をとても好ましく思う。
 都心の真っ只中で関西弁とも言いがたい変わった言葉遣いと、独特の雰囲気を持つ変り種のヒバリを受け入れる女子はそう多くない。口調に関しては北陸にいる祖父母の口調が中途半端に馴染んでしまったためだが、それらすべてを岩瀬は初めて会った時からふんわりとした笑顔でなんでもないことのように扱う。
 中学時代が友達を作る余裕さえもヒバリ本人になかったので、高校にあがってから出来た友達は、ヒバリにとってこそばゆくもあり大切な存在だった。だからこそ彼女の要望には出来る限り応えてあげたい。
 しかし放課後だけは魔術しとしての義務――第二図書室にいなくてはならないので駄目だった。それにヒバリ自身、書物に囲まれて過ごす時間をそう苦に感じていないのだ。
「ごめん。けど休日とか、あとは高校卒業したらいくらか自由になると思う」
「高校卒業って! 何年後の話をしてるのよっ」
 ヒバリの謝罪に対し、岩瀬はふはっと心底可笑しげに噴出した。
 曇りのないその笑顔を見て、自分にはもったいないくらいにいい子だとこのとき思った。


 昼間の退屈な授業を終えて放課後になり、颯爽と帰る準備を終えて教室を出たヒバリは、タイミングよく隣の教室から出てきたアズと鉢合わせた。アズは鼻歌でも歌いだしかねない上機嫌ぶりでヒバリに駆け寄った。
「ヒバリ、体育の授業、教室の窓から見たよ。すっごいねぇ、男顔負けの走りっぷりってかんじだった! 幼馴染のおれとしては実に鼻が高いよーォ」
 彼がハイテンションである原因はどうやら自分にあるらしい。気の抜ける笑顔を向けられて軽く肩を竦めた。
「普段鍛えとらん相手より遅かったらそれはそれで問題やろ」
「ま、それはそーだけどーォ」
 褒めてるんだからちょっとぐらい素直に喜べばいいのに……と途端に拗ねだす幼馴染の背中をやんわりと叩く。
「それよりもさっさと行く」
「はーぁい……」
 そしてアズと歩き出そうとしたそのとき。
「香月さん!」
 不意に呼び止められた。
 振り返った先では、見知らぬ男子生徒が強張った顔でヒバリを凝視めていた。
 ヒバリが怪訝げに彼と視線を合わすと、それだけで相手が怯むのがわかる。隣にいるアズは、何故か引き攣った笑顔を浮かべていた。
「ええっとヒバリ、おれはお邪魔みたいだから……」
「すぐ終わるから待って。そんで何ですか?」
 去ろうとするアズの腕を掴んで一蹴し、そんな二人を見て相手はますます硬直したようだった。暫くだんまりを決める様子にじれったくなり、「用がないなら行きますけど」と素っ気なく言うと、彼はようやく頑なに引き結んでいた口を慌てて開いた。
「待って言うから!」
「はあ」
「えっと……その……っっ香月さんは武元とどんな関係なんだ? 幼馴染って聞いたけどホントにそれだけなのかなって思って……」
「こんな公衆の面前でやめろよぉぉ……」
 隣から掻き消えそうなぐらいに小さな呻き声が届く。いつになく挙動不審な幼馴染に疑問を覚えながらも、ヒバリはそれならと平然と答えた。
「どんなって」
 アズを一瞥し、そして彼に視線を戻して一言。
「運命共同体やな」
「は?」
「え?」
 ヒバリは「質問には答えたからこれで」と颯爽と翻す。背後でぽかんと間抜け面を晒す二人と、彼等の様子に気付きそれとなく見学していた数人の生徒達に対し、なんら興味ないといったそっけなさで立ち去った。
 そしてヒバリが旧校舎に足を踏み入れようとする寸前になってようやく追いついたアズは早速文句を言い出した。
「もうもうもーぉっ後から柿本に運命共同体ってどういうことだってものすっごく問い詰められたんだからねっ。クラスメイトに目の敵にされるって結構辛いんだよ!? だから今までのらりくらりとかわしてきたのにこれでぜーぇんぶ台無しじゃない! だいたいヒバリはねぇ」
「柿本って誰?」
「さっき告白してきた奴だよ!」
「告白した人って柿本君って言うんか。で、誰に告白したん?」
 二人の間に微妙な沈黙が広がった。
 数泊を置いて、妙に疲れきった表情でアズが腕を組んでうんうんと頷いた。
「……そうだよね。君ってそういう子だったよね」
「だから何が?」
 異性に興味を持つ時期に、自分のことで手一杯であったヒバリは、そういう感情にひどく疎いところがある。
 アズは幼子を見るような生温かい眼差しでその小さな頭を撫でた。ヒバリはそれに眉根を寄せるも拒否することなく数秒の間だけ受け入れた。その後は容赦ない力でその足を踏みつけた。


 第二図書室は本日もいつもと変わらず誰もいない。学校側で管理する人間がおらず、忘れられた廃墟のような扱いだ。
 入学当初、初めてここに訪れた時は、長い間放置されていたとわかる埃臭さに絶句せざるを得なかった。てっきり前任であるはずの曽祖父が真面目に管理をしていると思い込んでいたからだ。
 王乃宮高校となんら繋がりのない香月の血筋がこの仕事を携わっているのは、曽祖父自身からこの仕事を承ったことから、魔術師でないと駄目な理由があるのだろう。ここに一体何があるというのか……ヒバリは管理を請け負ったけれど、肝心要のことは何も聞かされていなかった。行けばわかるの一言で曽祖父が旅立つ日まで押し切られてしまった。
 が、それにしてもこれはあんまりだろうと、五月初旬まで管理というより掃除で大忙しだった。
 狭い空間にぎゅうぎゅうに連なる本棚。
 ぎしぎしと不吉な音を鳴らし、所々が腐りかけているのではないかと不安を掻き立てる床板。
 位置的に旧校舎に隣接して生える雑木林の影となり、電気をつけなければ暗くじめじめした室内。
 廃墟どころかこれではいつか学校七不思議のひとつにエントリーされるのではなかろうか。そう言うとアズは盛大に顔を顰めて「不吉なこと言わないでよ!」と叫んだ。
 龍のくせにお化けが苦手らしい。幽霊よりも実物の龍の方がさぞ恐ろしいにちがいないのに。
 過去の記憶からふっと意識を戻し、ヒバリは空き教室から持ち運んだ椅子に腰掛けたまま、カウンター内から周囲へと視線を巡らせた。
 毎日換気をしているおかげで空気はそれほど悪くない。視界に映る室内は人一人が通れるだけの空間を空けて本棚が立ち並び、生徒が読書するためのスペースすらなく無機質な印象を与えがちだが、その一冊一冊が現代ではとても貴重なものであり、ヒバリはそれらを手にとる瞬間が好きだったりする。曽祖父のことをはた迷惑な人物だと煙たがっているけれど、これについてだけは深く感謝している。
「ねぇヒバリさんやーい。おれとっても暇なんですけど何してればいいですかねーェ?」
 アズからいつもの如くのやりとりが開始される。
「いつもみたいに寝てればええやん」
「うーん、昨日寝すぎて目が冴えてんだよね。さっきからずっと寝ようとしてたんだけど無理っぽい」
 横でブランケットにくるまったアズが、退屈げにヒバリを見上げて嘆息をつく。
 ヒバリと比べてアズは読書家でない。単純明快な思考回路らしく、文字を辿るうちにお手上げ状態になるタイプだ。大人しくしているなら身体を動かしている方が性に合っているらしい。とはいっても、運動が好きというわけではないので大抵は寝て過ごしているのだが。
 長寿の生き物なのでどの龍も博識かと思えば、人間と同じくそれぞれ異なるという最もな例がアズだった。
 アズは何度も頭を捻って今後どうやって時間を潰そうか悩む仕草を見せるも、何も思いつかなかったらしく縋るような目をして甘えたな声ををあげた。
「ヒバリィ、暇だってばーァ。やっぱヒバリおかしいって、こんなところにずっといられる神経がわかんない!」
「そーかそーか、わからんでええよ」
「ぬぅっ段々おれの扱いが悪くなっていくような……あ、そーだ! あのお話してよ」
 ヒバリはページを捲る手を止め、眼鏡の奥の黒目をしばたたかせる。
「あの話? あー……もしかしてあれ?」
「そ、あれ」
 長年一緒にいるだけあってすぐに検討がついたヒバリは、アズの懇願めいた眼差しにふうと溜息をついてカウンターに本を置いた。久々に聞かせる物語の記憶を手繰り寄せる。
 その間にアズはヒバリの膝にくっつくように座り直し、その太腿にこてんと頭を乗せる。この体勢は彼等があのお話をする時に必ずといっていい光景であり、はたから見て恋人同士と誤解されてもおかしくない構図である。しかし二人共まったくもって気にしていなかった。もしここに他人の目があったとしても、深く考えなかっただろう。それくらい自然な行動だった。
 運命共同体というより一心同体。
 ヒバリに告白した男子生徒にいらぬ誤解を与えたとアズは嘆いていたが、日がな一日一緒にいる――ある意味注目を集める異性同士に、恋愛的な認識を抱くのは致し方ないのかもしれない。
「なんやったっけな。――そうそう、昔々のおとぎばなし。ある日砂漠の国の王子様のもとに、一人の魔術師が訪れたことからはじまりました」
 そのなか、ヒバリはアズの後ろで括られた尻尾を指で梳きながら、いつになくゆったりとした柔らかい口調で語り始めた。


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