Act.1-10


 ウルヴァーンはケーキを半分ほど食べ終えたところで、二人に神妙な眼差しを向けた。企む気配すら見せぬ素直な態度を少しばかり意外に思う。
『そうだな……俺がこの世界に来た理由は、偶然と条件が重なったといえばいいのか』
『偶然と条件?』
 ああ、と彼は頷く。
『このような場所に繋がるとは知らなかった。そもそも転移の魔術陣が存在することは知ってはいたがこれまで利用する気はなかった。以前一度だけ試したことがあるが反応すらしなかったからな。だからこちらに来たのはまったくの偶然であって、俺が警戒するに値しない存在であることは確かだ……といっても、信じるか否かはそちらの判断に任せるがな』
 明らかに警戒を崩さぬ幼馴染を横目に見遣り、しかしそれも仕方ないかと納得する。
 彼は嘘をついてはいないのだろう。転移魔術の存在に発動するまで一切気付かなかった自分達のことを考えても、なんらかの条件が重なり発動する仕組みであり、彼の様子を見る限りファルナーサスではこの世界の理を知る術を持っていないと踏める。
 それなら何故、その反応しないと知っていた魔術陣を利用する気になったのか。それと、これからどうする気なのか……そのほかにも聞かなければならないことは山積みとある。
『発動しんはずの魔術陣が今回に限って働いたということは前回となんらかの相違点があると見てええやろ。相違点については今は答えんでええ。すぐに答えられると思わんからな。けどなるべく早く、できれば鮮明に思い出しといてな。あと気になることがもうひとつ、試したって何かしたん?』
 魔術陣は描いた内容に、各々に当て嵌められた条件が重なることで発動する仕組みとなっている。そうでなければお飾り同然のただのお絵かきである。
 そもそも魔術とは錬金術の法則と同様、等価交換が求められる。魔術と魔術陣のどちらも魔力を代償とするのが基本的なセオリーである。特に後者の場合、陣を描く過程に魔力で創造した光の線が捧げる対象となり、その線に帯びる魔力が密度が高ければ高いほど成功率は高く、けれど陣の構成が難解複雑であればあるほど代償が大きい。
 すなわち、試したというからには、条件に当て嵌まる何らかを推測または確信し行使したと予測されるのだが。
『現段階では言えないな』
 と、ウルヴァーンは台詞に反して優しげな表情で拒否を示した。隣の気配が荒立つのを感じるも、ヒバリ自身お世辞にも穏やかとは言いがたい。
『なんで、と聞いてもええ?』
 殊更慎重に、静かな口調で問うた。
 ウルヴァーンは紅茶を味わいながら、感情の読めない瞳を向けて、深く嘆息をついた。
『それはもちろん現段階で告げる必要がないと判断したからだ。逆に必要ならば口にする日が来るやもしれぬ』
『その判断材料は何』
『魔術師殿ならわかるだろう? 情報を与えられるばかりでは愚かの極まりなのだと』
『君……っ!』
 席から立ち上がろうとするアズに手を伸べて制する。
『アズ、ええよ。あの魔術陣に手すらつけとらん状態で聞いたこっちの方が分は悪い……じゃあ質問を変えるな。魔術陣を利用することになった経緯と今後について。これぐらいならええやろ』
 アズの苛立ちに反して、つくづく子供らしからぬ言動をする、とヒバリは憤りを通り越していたく感心していた。駄々を捏ねられるより余程話しやすく、そのぶん厄介な相手だ。魔術師殿と呼ばれるたびにそう呼ばれるだけの態度を示さなければならないという気にさせられる。
『経緯か、そうだな……もう一度試してみるのもいいと気まぐれを起こした結果がこれだ、といえばいいのか。こちらと繋ぐ魔術陣は大勢の目から巧妙に隠された場所にあってな、俺もそこに近付くことは滅多とない。偶然と条件が重なったといっただろう? 運が悪かった、その一言に尽きる』
「ヒバリーィ、彼やっぱすごい怪しいって。だって」
「黙ってケーキでも食べとれ」
 せっかくの忠告を無碍に遮りつつ、ヒバリはううんと首を傾げた。アズはしょぼんと肩を落としながらも、彼女に従いチーズケーキを口に運ぶ。ヒバリは数泊置いた後に『つまり』と繋げた。
『ウルヴァーンは迷子ってこと?』
『そうともいえるな』
 彼は目を細めて肯定した。年齢相応の笑い方をされて僅かに驚くも、顔には出さず次の問いの回答を促した。
『なら今後はどうする気なん? わたしん家に居候するんは別に構わん、ファルナーサスを知る者として義務やと思うし。母さん達も新しい子供ができたって喜んどるから変な気遣いはいらん』
『ああ……カナタは気立ての良いおなごだな、素性も知れぬ子供を包み込む懐深さをも具えとても助かっている。俺としてはしばらくこの世界を見て回るのも一興かと思っているが、ずっといるわけにはいかぬと思っているよ』
『なんで』
『あちらに置いてきた者がいるからだ。長い時を共に過ごした相手でな、一途に俺を守ろうとする実直で忠実な男だ。そこまでされて捨て置けぬよ』
 その言葉に、
「――アズ、無害とは言い切れんけど……とりあえずはこの子を信じてみようか」
 ヒバリはウルヴァーンから目を逸らさず、隣でいじけている幼馴染に対してぽつりと告げた。
 アズがこうも懐疑心を抱くのは龍族の本能か、それとも彼が自分のことを何も話さないからか……どちらにせよこの調子では上手く折り合いをつけることも出来ず悪化していく恐れがある。ここ数日二人の間に何かあったのか寝ていた身では知らないけれど、根がまっすぐな幼き龍には彼のような心の奥底が読めぬタイプは相性的に苦手な部類に入るのかもしれない。他の例をあげるなら王乃宮高校生徒会長とか。
 ――アズ、気付いとるか。
 ヒバリの口許は苦味を含み奇妙に引き攣った。
 ウルヴァーンが初めて、自分自身について告げたことに、気付いとる?
 曖昧なことばかり述べる子供が、例え他人のことでも、身近なものについて話したことに、ヒバリは例えようのない感動を覚えていた。ヒバリにとって、それだけで充分な答えだと思ったのだ。異世界に必ず戻してあげる、という。
 ややあって返ってきた言葉は、「ヒバリが決めたのなら」と自分の意思を無理矢理押さえ込んだような、低く掠れた声色だった。


 帰宅したのは空が鈍色に暮れた頃だった。
 とりあえず魔術陣の調査をはじめないことには何にもならないということで、喫茶店を出た後は母に宣言した通り周辺を散策することにした。体調が優れていないといっても、鍛えることを怠らないヒバリはそこらの一般人より余程体力を有している。ウルヴァーンが外を出歩いて困らぬように車や電車、信号機といった交通手段について一通り教え、彼の関心を引くものについていき、あっという間に時間が過ぎた。
 夕食を終えてダイニングを出た広間の奥にある階段を上る寸前に、ヒバリは前方を歩くアズの裾を引いた。引き止める僅かな動作にアズの足が止まる。
「アズ」
 喫茶店を出て以来、アズの口数が減ったのをヒバリは気付いていた。それを口に出さなかったのは、その原因だろうウルヴァーンが傍にいたからに他ならない。
 窺っていた二人きりになる機会は早くも訪れた。ウルヴァーンはダイニングで両親達と日本語の練習がてら団欒している。
「アズ、話しよか。地下室で、二人で。わたしが起きてからちゃんと話しとらんもんな?」
「……うん」
 暫しの間を置いて、アズは首を縦に振った。
自分より広い肩が、ヒバリの目には何故か小さく映った。
 その後即実行とばかりに颯爽と移動し、綺麗に清掃された地下室。一つしかない革張りの椅子にヒバリは腰を据えていた。対面するアズは倉庫から運んできた丸椅子に座って肩を縮めている。疚しいことがありますといわんばかりの小心ぶりだ。痛いほどの沈黙が張り詰め、元より怪しげな物が並ぶ空間が益々居心地の悪い空気に侵されていく。
 切り出したのはヒバリの方だった。
「で、アズ。あんたは何をそんなピリピリしとるん。表面的には取り繕っとるつもりなんやろうけどな、わたしは誤魔化されんよ」
 夕食の場では普段通りを演じており、鈍感な両親は騙せても幼馴染の自分はそうはいかない。ウルヴァーンが気付いている可能性はあるけれど、口出しする気はないのか素知らぬ顔だった。
「ウルヴァーンのことでここ数日色々あったし、今後も彼を帰すためにあれこれ問題が浮上してもおかしない。だから吐けるうちにとっととゲロってしまえ」
 右手をひらひら振りながら告げると、アズは床に落としていた視線をそろそろと上げて苦笑を滲ませた。
「……ヒバリさぁ、ゲロってってそれデカの台詞だよね? 汚い言葉だから止めなよぉ」
「うるさいさっさと言え。今なら少しは優しくしてやる」
 少しは、という部分を強調するあたりがヒバリである。
 アズは両手を顔の前で合わせて、そのまま前屈みになる。いつもの無駄なぐらいのポジティブさは欠片も見当たらない。暗く濁る瞳を閉じて、そのまま静止する。
「……やだなぁ、なんでヒバリっていつもそうなんだろ」
 そしてぽつりと呟いた。
「君って普段素っ気ないのにどうしてこんなときに限って情けをかけるというか、すごく嬉しくてたまんないしもう無茶苦茶甘えたくもなるけどそんな自分に自己嫌悪が湧くというかああもう何言ってんだろ!」
「情けってどこの時代劇なん」
「ウルヴァーンのこと嫌いじゃないよヒバリの言うとおりある程度の信用は置いてもいいんだと思う。けど得体が知れないのは変わらない。龍族の本能かおれの勘かはわからないけどなんかすごく嫌なものを感じるんだ、彼の動向もそうだけどできれば近付きたくない何かが秘められているような気がしてならない」
「無視すんなや」
「それにおれ……今回何もできてない」
 落胆と絶望、その他諸々が綯い交ぜられた、聞いているこちらが悲しくなる響き。これが彼を苦しめる何よりの本音なのだろう。
「おれの方が長生きなのに、おれの方が力は上なのに、我が主の役に立たなければならないのに何もできなかった。緊急事態に上手く対応できず動揺するのを宥めすかされて指示通りに動くことしか能のないただの操り人形同然で、冷静に考えれば異世界の住人がやってきたというだけの事態なのにうろたえて動けないなんて仮とはいえ主を持つ龍族としては失格だ。それに君がおれに何も告げずこの部屋で魔術を使ったのはおれに心配をかけまいとしたからなんだとはわかってる、わかってるけど自分で自分に腹が立つ……!」
「うぅん」
「こうして愚痴ってしまうのも……おれがまだまだ甘ちゃんだって証拠だし、ね……」
 アズの怒涛の勢いがようやく収まりを見せそのまま頭を垂れて締めくくる。後ろで結わえたしっぽすら沈んだ感情に引きずられて落ちぶれているように映る。ヒバリは顎に添えた指をずらし眼鏡の縁を上げ、その奥の瞳を鋭く細めた。
「アズ、わたしはね、元々一人でも苦に感じない奴なんよ。それは知っとるよね」
「うん、だから極力人に頼らない厄介な性格だってことも知ってる。悪い癖だし、止めてほしいって、倒れた君を見て本気で思ったよ」
「それな、アズがいるから、ともとれん?」
 いつもと変わらぬさらりとした物言い。しかし驚愕して見上げたアズの目に飛び込んできた幼馴染は、珍しくも穏やかな雰囲気を纏っていた。小さな子供を見守るような、慈愛の念を彩る微かな笑みを口許に浮かべている。それを見たアズは苦しげに服の上から胸元を押さえつけた。
「……おれがいるからって、何」
「運命共同体ってな、絶対の信頼を寄せとらんと言えんよってこと。わたしはこのとおり態度も口もお世辞にもよいとは言えんしな、たまには鞭やなく飴をやらんとわからんみたいやし、この際きっぱり言っとこうかと思って」
「っ今回は魔術の酷使だけで済んだけど、これからどんなことが待ち受けるかわからない、君は魔術師だから。おれは君を守ることができるのか、それが怖くてたまらないんだよ」
「守ってくれるやろ?」
 震える恐怖を振り払う、強く鋭く確信的な問いかけを、不敵な笑みへと変えてヒバリは言った。
「わたしを害する者はすべて取り除き、わたしの足りない部分を補う力を与えるのはあんただけやろ。怯むな幼き魂を抱える龍、そんな弱腰はわたしにはいらん」
 アズの目が大きく見開かれる。ヒバリは地下室に椅子を回転させ、壁際に寄せられた背後のデスク上に置かれた古いノートを手にとった。それは魔術陣の傍に置かれていた、ウルヴァーンを帰すための重要な手がかり。
「これからわたしはあの魔術陣の解析をする。ま、それはこのノートを読めば大概はわかるやろうけどね、けどこれはわたしの力の源のひとつとなる。新たな知識を蓄えられることがわたしはものすごく嬉しい。けど力は諸刃の剣や、それを支えるのがパートナーのお仕事。わかる?」
「ヒバリ……」
「今後そんな弱音くすぶらせたらはっ倒すから、馬鹿アズ」
 そこらの少女より小柄で、触れれば壊れてしまいそうな見目とは正反対な豪胆さは、アズに忠誠を、愛しさを溢れさせんばかりだった。アズはそれらをすべて胸の内に押し込めて、上擦る声で了承を告げた。

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