Act.1-9


 ヒバリの苦悩に満ちた葛藤は、ダイニングでの再会によりあっけなく終わりを告げた。
 ウルヴァーンが何故あんなことをしたのか……数時間一緒にいただけの関係でわかるはずもなく、気まぐれといってしまえば益々そのとおりだとしか思えなくなった。案の定顔を合わせた彼は平然としているどころか、昼御飯に出された醤油ラーメンを相手に箸の使い方に悪戦苦闘しており、彼方に日本語でレクチャーされているという微笑ましい光景を眺めている内に馬鹿らしくなったのが本音である。
「あーちゃんひぃちゃん、うーちゃんを連れて今日はどこかにお出かけしないの?」
 昼食を終えてようやく当事者同士で語らう場を作るため、ダイニングを出ようとする彼等に彼方が異を唱えた。両掌を合わせてにっこり微笑む姿は、どこをどう見ても三十代後半に見えない。
「お出かけって……あんな母さん、わたしたちこれでも忙しいんやけど」
 うんざりした顔で振り返るヒバリに、彼方は笑顔を崩さぬまま首を傾げた。いつもの如く嫌な予感がした。
「あらそうなの? でも目白くんは締め切り近くだから書斎に篭りっぱなしで構ってあげられないし、わたしはうーちゃんと言葉が通じないからろくな話し相手にならなくて、だからこの数日うーちゃんをろくに外に出してあげられなかったのよ。ほら最近物騒なうえに知らない場所を子供一人って危なっかしいじゃない? それに異世界の子っていうんだからここの常識とかよくわかってないでしょうし。あ、あーちゃんと目白くんがちょっとは教えたと思うけどね? けどやっぱり直接見ないことにはよくわからないと思うの」
「う、ん。そう、やね……」
「それに比べて二人は休日で学校もお休み。ね、ちょうどいい機会じゃない。うーちゃんもきっとその方が喜ぶわ。この家にずっといるのもいいけど一箇所にいつづけるのって結構息がつまっちゃうでしょうし、きっと楽しく過ごせると思うの。そういえば忙しいとか言ったような気がするけど一体なんの用事なのかしら?」
 扉をすぐ出たところに立つアズが「彼方さん最強……」と呟いているのをはっきりと聞きとり、反射的に睨みつけた。肩を竦められるも、その口許には隠しきれていない苦笑が滲んでいた。どうせ逆らえないのだから諦めなよ。そう言っているのが丸わかりだった。ヒバリは溜息混じりに言った。
「……ここら周辺を散策してくる」
「そう、よかったっ。じゃあうーちゃん、楽しんできてね」
 うーちゃんと呼ばれる子供は、母の隣で早口の日本語を理解していないだろうに、悠然たる態度で頷いた。母と仲睦まじい様子に今度は疲れが込み上げた。


 晴天の空の下、三人はまずどこに向かうべきか検討した。
 気温はそう高くないのに蒸した熱気が肌を包み、外に出ただけで異様な疲労感を伴う。仮死状態ともとれる異常な睡眠力を発揮したヒバリは、覚醒したといえども体調が万全でなかった。魔力とは生物なら誰しも持っている、いわば精神エネルギーと酷似しており、そう簡単に全快するものではない。消費量に回復が追いつかないともいう。ヒバリは気だるさの抜けない身体を動かしながらコンクリートの硬い地面を踏みしめる。
「母さんの影響下やなきゃこっちのもん。とりあえず腰を落ち着ける場所に移動しよか」
「じゃ、あそこは? えーとなんだっけ」
「雛菊やろ」
「それそれ! あそこはある意味穴場だしね。久々にチーズケーキでも頼もうかなぁ」
 車二台すれ違うのがやっとの歩道のない路上を数十分、駅周辺に近付くにつれてすれ違う人の数もそれなりに多くなる。ヒバリは横に並ぶ子供にそれとなく視線を落とした。
 見目麗しい外国の子供と高校生二人の組み合わせはそれなりに目を引くらしい。少数とはいえ先刻から視線が絶えない。彼が目を引く美少年であることは重々承知済みだったけれど、まさかこれほどとは……と改めて感心した。
 褐色といっても黒人のように濃すぎず、透明感のある蜂蜜の如き滑らかな肌が光沢を放たんばかりに太陽の下でよく映える。彫りの深い顔立ちは幼さが多分に残るぶん今は目に留まることは少ないけれど、数年後には誰もが振り返る青年に成長するだろう。
 その注目の的である本人は、ヒバリを挟んで右側に並び、物珍しいものを見るような眼差しで周囲に目を配っていた。実際、彼はこの世界に来て外出が初めてらしいので、見るものすべてが新鮮なのだろう。ヒバリは思わず親切気を起こした。
『ウルヴァーン、今から休憩所みたいなところに行くんやけど、どっか行きたいとこあるなら言ってな? なるべく希望には応えるようにするし』
 ウルヴァーンは彷徨う視線を彼女に移し、苦笑混じりの嘆息をついた。
『希望といわれても、あまりに俺のいる世界と違いすぎて具体的な案は出せないな』
『そんなに違うん?』
『俺の国は砂漠が広がり、常に気温が高く人が住みにくい場所でな。このような綺麗に舗装された地面でないし、石、煉瓦、木材、金属のどれとも違う資材を用いて造られた建物は初めて見たよ。それに装飾的な要素がほぼ見当たらず縦に伸びる直線的な形状の外観も面白い』
『ふぅん、あっちにはコンクリートがないんやね』
 と言いつつ、別段驚きはしなかった。彼の服装、様子、そして話から察するに、ファルナーサスで科学が存在する可能性は限りなく低い。魔術を有効活用しているか、それとも別の手段を講じられているのだろう。根本が違いすぎるのだ、余程でない限りなんでも受け入れられる。
『これはコンクリートというのか。ニホンゴといい聞き慣れぬ響きだ。発音、単語、文法、綴りとすべてが独特すぎて容易に馴染めぬ』
『ま、コンクリートはニホンゴじゃないけどね。エイゴっていうの』
『エイゴ?』
 三人は駅の一歩手前の小道を右に曲がり裏通りに入る。ここM地区は都市部の近くにあるというのに、東京とは思えぬ寂れ具合を漂わせる住宅地である。通り過ぎる人達も今時の若者よりも主婦から子供と世帯が多い。周囲はどれも目新しさはなく、むしろ商店街やら駄菓子屋やらと古い世代がそのまま年を重ねた姿がそこにある。
『そ、エイゴ。ニホンゴが民族の言葉みたいなもので、エイゴがそっちのファルナース語と同じ扱いかな? でもここはニホンだからニホンゴしか喋れない人が多くてね、だからニホンゴを学んだ方がお得なわけですよ』
 ウルヴァーンは今の台詞の何処に引かれたのか、顎に手を添えて興味深げに思案を巡らせる仕草を見せた。
『……一つ尋ねるが、こちらにはエーゴとニホンゴの他にどれほどの言語が存在する?』
『そうだねぇ』
 アズは後頭部に組んでいた腕を下ろし、指折り数えながら口ずさんだ。
『国によって違ったりするんだけど。えーっと……エイゴ、ニホンゴ、ドイツゴ、フランスゴ、フラマンゴ、スワヒリゴ、ギリシアゴ、アラビアゴ、オランダゴ、スペインゴとかまあ適当に並べてみたけど、こんなもんじゃなくてもう数え切れないくらいいっぱいあるよ』
『なるほど、な……』
『何か気になる点でもあるん? っと、着いた。ここが休憩所や』
 裏通りを真っ直ぐ突き進んだ先、道の途中に古いアパートに挟まれて小ぢんまりとした店がぽつんと設けられていた。入口にOPENとお世辞にも綺麗といえない文字で書き殴ったプレートがかけられ、脇の椅子の上に置かれた黒板には本日のメニューが表示されている。表一面に広がるガラス窓の向こうは、客の一人も見当たらない。
「うん、今日は客少ないどころかおらんね。さすがマスター」
「これでよく潰れないよねぇ、すごいすごい」
 と何気に貶しながらも、喫茶店『雛菊』を経営する店主を思えばそれほど不思議でないと思う二人だった。
 カランカランと鐘の音を鳴らして扉を潜る。中はそれほど広くなく、正面から右側に四人掛けのテーブルが三つ並び、奥へ続く通路は一人通れれば良い程度に狭い。壁や棚にはアンティークが飾られ、天井から黄色い光が降り注ぎ、全体的に素朴な雰囲気を醸し出していた。
 ヒバリ達は一番奥のテーブルに、通路側にヒバリとアズの二人、奥にウルヴァーンと席につく。そして最奥のキッチンから出てきた男に顔を向けた。
「おおう、久々だけど相変わらずいかついですねマスター」
 水を入れたコップを三つお盆に乗せて運ぶ姿は、喫茶店の主人というよりもむしろプロレスラーを連想させる筋肉隆々の中年。エプロンが激しく似合わない。彼の本名は謎のまま、常連にはマスターで通っていた。
 マスターはアズの軽口に太い片眉を上げるだけで答え、それぞれの前に水を置いていく。ヒバリはメニューを広げ、真向かいの子供に尋ねた。
『ウルヴァーン、とりあえず注文するけどどうする? 小腹空いとんならお菓子とか。飲みもんだけでもええし』
『菓子か……例えばどんなものがある?』
『んーそっちの言葉で伝えられんのが辛いな。じゃ、次の質問に答えて。甘いのが平気か。触感は硬いの柔らかいのどっちが好きか。あと果物は乗ってる方が嬉しいか』
『甘いのは普段そう口にしないけど嫌いじゃない。どちらかといえば柔らかい方が好きで、果物についてはどちらでもないな』
「なるほど。マスター、注文してええですか?」
 マスターは見慣れない人からすれば怒っているようにしか見えない面差しで、愛想ひとつなく頭を縦に上下させて「どうぞ」と肯定した。
「わたしはカプチーノ、この子にはショートケーキとストレートの紅茶をお願いします」
「おれはチーズケーキと珈琲でお願いしまーす」
「わかりました。暫しの間お待ちください」
 筋肉の盛った大柄な背中を見送り、ヒバリはウルヴァーンに向き直る。
『んで、一旦話が途切れたけど、この世界に言語が多く点在するのになんかあるん?』
 ウルヴァーンも奥へと潜むマスターに投げていた視線を二人に戻し、考え深げに目を眇めて腕を組んだ。
『お前達はファルナーサスについてどれほど知っている?』
『俺たちが知ってんのはそう多くないってか、魔術に関する知識がほとんどかな。だからそっちについてよくわかんないのが実情だね』
 龍族について伏せておくのは、あちらでも彼等が希少であり人間達の大いなる欲望を満たすひとつだから。基本的に争いを好まない種族のため、習性である相方探しを除けば誰の目も届かぬ場所でひっそり暮らしているような気質である。
 その龍族であるアズが言うところに魔術師であるヒバリは当て嵌まるのだが、彼等の場合は長生きだけに幅広い知識を具えている。勤勉でなく奔放な幼龍のアズすら周囲の仲間より劣るものの人間の知能を遥かに超える。それを知るヒバリは沈黙を守り、幼馴染の答えに同意する。
『そうか。ではファルナーサスではファルナース語しか扱われないことは知らぬのか』
 だからウルヴァーンの言った内容をヒバリが理解できないのは至極当然のことだった。
『えっっうっそ、そーなのっ!?』
 アズは知識上でなら知っていたのだろう――驚く素振りも見せるが、長年の付き合いであるヒバリの目は誤魔化せない。他人から見れば違和感のない反応も、自分だけ知らないことを思い知らされた立場からすれば憎たらしいだけだ。反射的にテーブル下の足を踏みつけていた。隣の身体がびくりと震えた気がするけれど気にしない。悲鳴をあげなかっただけでも褒めてあげよう。ヒバリは素知らぬ顔で疑問を口にした。
『それは知らんかったわ。けどそれっておかしない? ウルヴァーンの住む国の他にも国はあるんやろ? それやったらファルナース語以外のもんがあってもいいと思うんやけど』
『どうしてそう考える?』
『どうしてって……あんな、言葉ってのは人と人が互いの意思を伝え合う手段のひとつとして生まれたんよ。いつどのようにして生まれたかはわからんけど、人は進化にせよ後退にせよ成長し続ける生き物であって決して同じもんにはならん。彼等の持つ性質や住む場所によってそれに合うものを作り上げる。で、それは言語も同じやと思うんよ』
『言語も変化すると』
『うん。ええとどう言えばええかな』
「お待たせいたしました」
 と、言葉を濁す中頼んだ品々が各自の前に置かれて、一旦話を切り上げることとなった。
「ありがとう、マスター」
「相変わらずいい仕事するねぇ」
「ありがとうございます」
 のっそりと頭を垂れる姿はまさに熊。けれど彼の差し出すお菓子はもちろん飲み物まですべて彼の皮の厚い無骨な手によって作り出されたものだ。その事実を知った時ひどく驚愕したものだが、いつ見ても感心してしまう。特にふわふわの生地に程よい甘さの生クリームでデコレートし苺を乗せたショートケーキは絶品だ。ウルヴァーンはそれを口に運び、いたく満足げだった。
 マスターはヒバリ達が英語ですらない言葉を交わしているのを耳にしていながら、注文の物を運び終えると関知せずとばかりにすぐに引っ込む。客への最低限の態度といい、出される料理の質といい、立地条件が最低でなければもっと客が来るはずなのに……ヒバリはカプチーノの芳香に気分を良くしながら店を評価する。しかし開店当時から長年の常連であるヒバリ達の目からしても潰れる気配を一切見せぬ雛菊に、このままのスタイルを保ってほしいとも思っていた。
 程よい苦味と液体上に浮かぶ泡を舌で楽しむ中、ようやく纏まった考えに顔を上げる。ウルヴァーンと視線が合いぎくりとした。先刻のキスがフラッシュバックされ、反射的に肩に力が入る。が、相手の方はやはりというべきか何も感じていないらしく、フォークでケーキを切り分けながら言葉を促した。
『魔術師殿、それで答えは見つかったのか?』
『ああうん……国みたいな大規模でなく集団でも独自の体制、規則とかを築くやろ? まとまりがつくように。で、それらは交易、侵略、移動といった……まーどんな手段にせよ、他国との接触により輸入輸出、吸収でもええな。まあええとこも悪いところも含めて取り込むわけや』
『知識という形でか』
『そ、知識。それを言語に当て嵌めてみても同じやと思うんよ。だからおかしいと思う。何故今まで関わりのなかった人種が同じ言語を扱う? ファルナーサスでいう言語はファルナース語のみ。それはどうあっても違和感やって感じにな。多少なりとも変化っつーのが訪れると思うんやけど』
 なるほど、と深く頷く姿は、幾ら見積もっても十二歳の子供である。だからこそ異世界にいながら、その苦労をおくびにも出さず居座る態度は大きな違和感を添う。
 何者なのだろう――幾度と思ったことだけれど、目を逸らすわけにはいかなかった。
『――ウルヴァーンは、どうしてこの世界に来たん?』
 ヒバリは幼馴染が揃って初めて、彼自身について深く踏み込んだ。


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