Act.1-8


 枕元にある目覚ましを見たところ、深夜の三時だった。その隣に置かれた携帯の日付は、意識がなくした頃より五日が経過していた。岩瀬から労わりのメールが数件受信されているのを確認し、薄暗い部屋の中でカチカチとボタンを弄る機械音だけが広がる。
「ん、……」
 その際、洩らした欠伸は、渇いた喉を表すようにひどく掠れていた。思わず喉許を押さえ、暫し熟考する仕草を取った後にベッドから腰を上げ、机に常備してあるペンライトを片手に部屋を出た。
 時間帯が時間帯なので、やはりというべきか廊下は部屋以上に暗く、どこに視線を投げてもぼんやりとした輪郭が浮かぶだけで闇に満ちていた。また慎重に進まなければ、容易に足元の床板が大きな音をたてるため、目覚めたばかりだというのにおちおち普通に歩くことも出来ない。建物内は古臭い様式のせいか、この家に慣れぬ者からすればそこはかとなく漂う不気味な静けさを覚えるだろう。しかしペンライトの光を目印にして進む足取りは、そんな躊躇を一切感じさせない慣れがあった。
 一階広間へと繋がる階段の手すりに指を滑らせ、ゆったりとした動作で降りていく。そのたびにほつれた髪が頬にかかり、煩わしげにライトを持った手で払う。
 と、背後からその細い手首を乱暴な動作で掴まれた。
 それまで自分以外の気配をまったく感じていなかったため、余計に驚いてぎょっと振り返った。
 唯一の照明が仄かに浮かび上がらせるのは、香月家の誰でもない、異国の子供。彼の方も驚きに目を見開いている。
『こんな夜更けに誰かと思いきや……ようやく姫君のお目覚めか』
 異世界の言葉を口にする、御伽話の王子様がそこにいた。
 ヒバリは彼をぽかんと見上げ、「おはようございます」と日本語で返した。


 ダイニングと繋がるキッチンで紅茶を用意しながら、ヒバリは大人しく食卓につく子供に視線を投げた。
 まだ数日しか滞在していない身のはずなのに、やけに寛いでいるところを見て、香月家の面子とは上手く過ごしていたらしい。見覚えのあるカエル柄のパジャマを身に纏う姿が幼き頃のアズを思い出し、けれど違う人物であることに若干の違和感を覚える。というより、彼とそのパジャマの組み合わせは視界の暴力としか思えず苦笑いしか出てこない。先入観で高貴な王子様のイメージが染み付いているからだろう。母の趣味とはいえ、十二歳前後の男の子に着せるものではないと思う。
 電気ケトルで沸かしたお湯を、最近母が懸賞で当てた薄い青と赤のペアカップに注ぎ、棚から出した紅茶パックを入れる。わざわざ取り出した盆に、小皿を一緒に乗せて彼のもとへ運ぶ。
 ヒバリのスリッパの音が近付くのに、彼がこちらへ顔を向けた。明るい部屋の下で、綺麗なアメジストの瞳が自分の姿を映し出すのにどきりとする。何故こうもあの話の描写と瓜二つなのだろう。妙に緊張してしまう。
「ええとあのな……っと、多分こっちじゃ通じんのやな」
 思わず日本語で話しかけそうになり、先程からやけに回転の鈍い頭を一旦停止させた。寝ぼけすぎや、と軽く頭を振る。それを眺める男の子は無邪気さと無縁の、ひどく穏やかな笑顔を口許に乗せて首を傾げた。
『姫君はカナタと同じ、あちらの言葉を理解できない側なのか』
 ヒバリはもう一度かぶりを振った。
『……や、わかる。普段ニホンゴで喋っとるからついな』
 香月を名乗る血縁者は、魔術師であろうがなかろうがファルナース語に触れる機会を作らされる。ただしそういう言語があると教えられるだけなので話せない者の方が圧倒的に多い。
 そのなか目白の場合、魔術師ではないが仕事の関係上言語に関心があったので、あの曽祖父を無理矢理付き合わせて話せるようになるまで上達させたらしい。そういう押しの強さは感心する。
『姫君の言葉は訛っているのだな』
 と、彼は意外とばかりに呟いた。ヒバリは盆をテーブルに置き、向かいの席に腰を下ろした。
『わたしが喋るニホンゴは訛りがあってな。で、こっちがお上品に聞こえとると思うとなんか気持ち悪くって弄ったんよ』
 父のケースと違いヒバリは魔術師の知識として習わされた。中学時代に曽祖父の龍と何時如何なる時もファルナース語で会話させられたため、今ではスイッチを切り替えるように話すことが出来る。忘れないように時折アズと言葉を交わし、徐々に改良させたのが現在の訛りである。
 頑張ったんです、と無駄に威張り口調で告げると、彼はふふっとくぐもった笑いを零し、おもむろに背もたれに寄り掛かった。
『眠る姿から奥ゆかしく清楚な貴族の娘を想像していたが、姫君はえらく変わり者の部類らしい』
『貴族とか柄やないわ』
 奥ゆかしい? 清楚? 鼻で笑い飛ばす勢いで自分に相応しくない単語だ。
『それに姫君って呼び方も止めてほしい、どこの深窓の姫なんってつっこみたくなる。わたしは香月雲雀。貴族どころか庶民の一員。雲雀が名前やからそっちで呼んでほしい』
『そういえば互いに自己紹介をしていなかったか』
 彼はお腹のところで両手を重ねつつ名前を告げた。そんな些細な仕草すら、気品というより貫禄を感じられた。
『俺の名はウルヴァーン。とうに察しているだろうが、お前達が言う異世界からやってきた者だ』
 それと、と探るような目付きをされる。
『姫君はただの庶民じゃなかろう――俺を転移させるほどの力を持つ偉大な魔術師殿だというのに』
 信じられないな……と囁くその響きは、変声期前の子供特有の甘さとはまた別の意味でとてつもなく甘かった。例えるなら特盛り苺パフェに更に砂糖をまぶしてチョコクリームをなみなみかけたような、胸焼けするような甘さだ。子供に似つかわしくない色気が無闇に放たれて、思わず顔を顰めてしまう。
 嫌な子供やな、というのがヒバリの結論だった。それに結局名前を呼ばないあたり、元よりその気がないようだ。
 対してウルヴァーンは彼女の反応をいたく気に入ったらしい。肩を揺らして快活な笑い声をたてた。
 ヒバリは少々腹立たしさを覚えながらも、入れた紅茶を無駄にする気はなく盆の上に乗ったカップを指して飲め、と眼力で訴えた。ウルヴァーンは懲りず笑い続け、けれどヒバリの言うことは聞くらしく青いカップを手にとった。飲む動作を起こす前にパックの紐を指で摘んで、不思議そうに目をしばたたかせる。
『これは液体に浸けたまま飲めばいいのか?』
 ヒバリは虚を突かれるも、納得して小皿を差し出した。
『ちゃうよ。とりあえずここに置いて、後で捨てるから。味が気に入らんなら遠慮せずに言ってな、砂糖とか色々用意するから』
 ウルヴァーンはすぐに理解を示し、濡れたパックを液体から取り出した。こんなささやかなことでも文化の違いが見られるんやな、いやこの場合は作法か?……しみじみ感じ入りながら、ヒバリは紅茶を飲む子供を眺めた。ウルヴァーンはああ、と特に感慨のない声を洩らす。
『……なにかと思えば紅茶か。とはいえ、お湯にこの包みを入れるだけの簡略式の代償に些か味が落ちているな。周りの者は手間隙かけることを面倒がった結果としてこれを口にしているのか』
『そうやねえ』
 感想としてはズレた返しに、微苦笑が滲んだ。ヒバリもまた赤いカップに注がれた紅茶を口にする。馴染みのあるインスタントの甘みが口内に広がる。好きでも嫌いでもない味だ。
『便利なもんに走るのは人間の性やからね。全部に気ィ遣っとったら疲れるだけやろ? だからこんくらいの手軽さは罪にはならんとわたしは思うよ。美味いもんが飲みたいとか妙なこだわりがない人間以外はな。……まあ便利便利と便利なもんがありすぎても堕ちてくだけやろうけど』
『どの場所でも人間とは変わらぬものよな』
 二人の紅茶を飲む音だけが、部屋の静寂を僅かに震わす。それは夜の出会いに相応しい、波風立たぬ穏やかといえる顔合わせだった。


 太陽が真上に昇る頃、目の前で幼馴染がぽかんと間抜け面を曝してこちらを凝視していた。ヒバリは普段おろしている髪を高く結い上げ、花柄のワンピースにレギンスという可愛らしい格好をしているにもかかわらず、腕組みして左足をその腰にあてるという無駄に居丈高な態度でアズを見下していた。休日とはいえ、昼間近くまで惰眠を貪る男を蹴りで起こしたのは言うまでもない。
「え、あ……ええーっっヒバリさん!?」
「おはようございますアズさん、とってもいい天気ですね」
「ああうんそうですねー……じゃなくって!」
 アズは慌てて足をどかしてベッドから飛び降り、勢いのままヒバリに抱きしめた。うひぁっと色気のない悲鳴が彼の胸元から発される。
 柔らかいというよりも羽毛のようにふわふわした感触、微かに匂う爽やかでいてどこか甘い香り。慣れ親しんだ彼女の体温。ぐりぐりと髪に頬を擦り付ける。
 大型犬がじゃれつくような仕草に、ヒバリも流石に邪険にする気は起きず、反射的に回した背中をぽんぽんと優しい手付きで叩いた。
「ヒバリだヒバリー、ヒバリやっと起きたんだねぇ」
「はいはいおはよう。その様子やと結構しょぼくれとったみたいやね」
「だってヒバリがいない学校なんてつまんないんだもん」
「だもんってなんかキショイ」
「寝起き早々きついッスよヒバリさん!」
 アズが屈めていた腰と共に顔を上げる。ヒバリの目に映るそれは、泣く寸前ともいえる子供じみた心底情けない面をしていた。予想以上に心配かけたのだと気付いた。
「ま、それより母さんが昼飯やからアズ起こしてやってさ。洗面所で顔洗って着替えて下に集合な」
 だからといって優しくするヒバリでない。相変わらずの素っ気なさで体よくあしらった。
 部屋を出ると、扉の横に寄りかかるウルヴァーンがいた。
 話題が尽きることがない……のは嘘だけれど、互いに寝直す気が起きず先程まで一緒にいたのは確かだった。とはいえその長い時間、彼等は魔術云々について口にしなかった。静謐といえるひとときは、とりとめのない会話の上に成立していると理解し、決して美味しいといえない紅茶を飲みながら過ごした。
「着替えは済んだみたいやね」
 ヒバリは彼の格好を見てふっと口許を綻ばせた。アズの古着を身に纏うウルヴァーンの姿は、あのパジャマを見た後ではどれも似合う。
 何気に失礼なことを考えるヒバリを、ウルヴァーンはじっと見つめていたかと思えば、壁から背を浮かせて隣に並ぶ。女子の平均身長より遥かに小さい自分よりも微妙に低い位置にある頭に、年齢差を考えると嬉しいような悲しいような複雑な気分を味わう。
 と、ウルヴァーンの顔がやけに間近にあることに気付いた。咄嗟の判断を前にして、頭の中が真っ白になった。
 深遠なる菫色の双眸が――わたしをいとも簡単に捕らえる。
 硬い指先が、指と指を絡めてきて。
 さらに距離を詰められて。
 けれどなんらかの力が働き縫いとめられたかのように、動けなくなった。
 頬に柔らかく温かな感触が押し付けられて、それがなんなのか瞬時に察したヒバリは言葉を失った。ウルヴァーンは悪戯めいた色を瞳に宿し、肉感的な上唇を舌で潤した。味見された、と思った。
『――魔術師殿もそんな風に笑うのか。お淑やかとは縁遠く愛想もそうなく女性の鑑とかけ離れているとはいえ一筋縄にいかぬ賢しい娘だと認識していたが、姫君と呼ぶに相応しい愛らしさは一応兼ね備えておるのだな』
 からかいでもなんでもなく、美味しそうだったからとでも言わんばかりに、抵抗の意思すら奪われて、された。
 じわじわと頬に赤みが差していき、唇で触れられた部分を押さえる。声をあげる代わりに喉が引き攣った。
 外国の子供にされた単なるスキンシップだと思おうにも、ウルヴァーンの放つ存在感は強烈すぎた。彼の纏う艶やかさは、叔父の学に抱く安心感とは程遠い大人の男が持つそれで、素知らぬ顔をする余裕など一切与えない甘美な毒を持つ。
 ヒバリの唖然とした様子にいたく満足した子供は、「カナタ ごはん いく」とこんなときに限って片言で告げて去っていった。立ち尽くすヒバリが我に返ったのは、着替えを済ませて部屋から出てきたアズに声をかけられた時だった。


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