Act.1-4


 二人して勢いよくカウンターから飛び出す。ヒバリは胸元から精巧な細工が施された鈍い黒を放つペンダントを取り出した。
【イオリアス 我が盟約の縁に従い永遠の冥闇より真実の姿を現せ】
 ヒバリの言葉に反応してペンダントが淡く発光し、瞬時にそれは錫杖によく似た一本の長棒へと変化した。それを右手で力強く握りしめ、意識を杖の先端に集中させる。
 アズの両眼が黒から金へと色味を帯び、猫科動物よろしく瞳孔が縦に凝縮されていく。辺りをおもむろに見渡し、何かを察知するとすぐにヒバリの名前を呼ぶ。
「ヒバリ、見つけた」
「どこ?」
 アズを先頭に慎重に前へ進み、立ち並ぶ本棚の中央最奥から色濃い気配を嗅ぎ取る。ヒバリは柳眉を潜めて「こんなとこに……」と不満げな声色で呟いた。
 今の今まで気付かなかったのは多分、発動するまで効力を一切覆い隠す類の魔術が施されていたからだろう。そうでなくては一ヶ月以上ここの管理を任されていながら、この事態が引き起こされるまで気付けなかった自分の未熟さを痛感するしかない。施されているにしても悔しさの波がじわじわと押し寄せるというのに。
 アズを後ろに押しやり、ヒバリは狭い通路の奥へ足を踏み入れた。
「ヒバリ、嫌な気配は感じないけど気をつけて」
 アズは電灯の影となった薄暗い場所を見据えながら注意を促す。幼馴染の言う通り禍々しい気配はない。きっとなんらかの条件が重なって突如引き起こされた現象なのだろう。ならばその要因を探らなくてはならない。
 本棚に挟まれた奥は以前とそう変わりなかった。ただ唯一、壁面にひとつの陣が光を帯びて浮き出ていた。
「魔術陣……やっぱ隠されとったんやな」
 ほんの僅かな魔力を杖の先端に定着させて陣の表面層をなぞる。
 陣を描く線の一本一本が、魔術を構築するのに必要不可欠な役割を果たしている。ヒバリは自分の学んだ知識を応用させ、その線の意味するものをなんとなく察すると、背後にいるアズに視線を投げた。
「アズ、これは発動しとるわけやない、なんらかの魔術と繋がって反応しとるんや。この交差した線がそう」
 二本の渦巻きじみた曲線を指し示すと、ふうんと感心した声が届く。
「で、どうすんの?」
「妖怪ジジイに教えられた魔術がこれと関係するかもしれん。このまま放っといて害がないとも言いきれんしな……ちょい下がっとって」
 ヒバリは壁から少し距離をとり、やや傾けるようにして杖を掲げた。先端についた幾つもの輪が、シャランと清涼な鈴に似た音色を奏でる。
 この呪文を唱えるのは、正直に言うと気が重い。使いこなせるか否かは、経験の足りないヒバリの素質に賭けるしかないほどの高等魔術であることは曽祖父から教えられていた。けれどそれは同時に、魔術師見習いを卒業した後も勉強に励むしかなかった自分が、ようやく踏み出す一歩目でもある。
 このまま魔術を行使しん日が続いても、それはそれでええと思っとったんやけどな……ヒバリは魔術師にあるまじきことを考えながらすぅっと大きく息を吸った。
【――我が意思は鋼鉄より堅く されど契約の前では脆く儚く崩れ落ちるもの也】
 ヒバリを中心にふわりと風が舞い上がりウェーブの掛かった髪が揺れ動く。淀みない澄んだ声音が、第二図書室全体を包み込む。
【向き合うは破魔の一族なりて 飛翔の名を司る者なりて 隔てを取り除く執行者也】
 思い描くはひとつだけ。
 魔術陣の意思を解放するということのみ。
 冷静さを失わず、無駄な力を抜いて、心を無にする。
 しっかりと見開かれた瞳の奥で、穏やかな波紋が広がる。
【開くは異界の門 黄金の国より訪れし太陽の玉座 描かれるは運命の輪 時空を超越し歪曲し創造するは糧となりし芳香の果実なる者 揺り籠に眠る魂に慈悲の道標を指し示せ!】
 呪文を唱え終えると同時に、ヒバリの身の内を激流が下り大量の魔力が消費されていくのがわかった。声にならない悲鳴が口から洩れそうになるも歯を食いしばり耐える。
 魔術師の持つ杖は魔力の増幅と統制、二つの役目を果たしている。それがあってなお意識ごと引きずられそうになり、暴走しかける魔力を半ば本能で纏め上げ昇華させる。
 そのとき背後から激痛に耐える自分の身体を温かな何かが覆い包んだ。その体温を、気配を、ヒバリは誰よりも何よりもよく知っている。
 巻き起こる爆風に歪む視界の中、自分を支える幼馴染が不思議と笑っているように感じた。ヒバリなら大丈夫だよ、となんでもないことのように。
 それだけで。たったそれだけのことでヒバリはやれると思った。


 数分程度だろうか……霞んだ意識が徐々にはっきりとしてきて、ヒバリはうっすらと目蓋を開いた。
 真っ暗な視界に黄金に輝く二つの眼と若干不安定な息遣い。そろそろと左手を伸ばし、すると柔らかくも硬い感触が手の平から伝わる。時間が経つごとに強張るその部分がみるみる緩んでいき、ようやく安堵に近い溜息がその口から零れた。
「……ヒバリ」
「ア、ズ……なん、ふん。いしき、とんど、った……?」
「ヒバリ、無茶しすぎ」
 起き上がろうとするも両肩を捕まれて、そのままの体勢でアズに見下ろされた。
 ほんの少しの間でも意識が飛んだからか、右手には杖から姿を変えたペンダントが握られている。体内を巡る魔力の大半を一気に消費した反動で心底気だるい身体を持て余しつつ、ヒバリは幼馴染を睨み据える。さっきよりも幾分はっきりした口調で告げる。
「アズ。わたしには、まだ。仕事が、残っとる」
「倒れたら元も子もないでしょ?」
「も、起きた。だから、平気」
「ヒバリ」
 アズの声色に険が含まれるも、ヒバリは駄々を捏ねる子供のように嫌々と顔を振って「お願いやから」と囁いた。
「今日はもう、こんな無茶はせん。だから、お願い。わたしに仕事を、完遂させて」
 普段の素っ気なさが嘘のような弱々しい態度で頼まれてしまえば、この幼馴染が唯一無二の大切な少女に逆らえるはずがない。ヒバリはそのことを知った上で「お願い」をする。案の定、アズは不承不承ながら頷いた。
 とはいっても暫く動くこともままならぬ状態で歩かせることは断固反対らしく、ヒバリはアズに膝枕から横抱きで運ばれることになった。いわゆるお姫様抱っこである。そのことに相手がアズだからか、ヒバリ自身何の気負いもなく大人しく収まっている。
 子供サイズのちっこい身体を軽々と抱えるアズは、「あとでお片付けしないとねぇ」と心底情けない顔で呟いた。一方、ヒバリは暗闇に慣れた目でご対面した目の前の光景に硬直していた。
 隙間なく埋まっていた段は良いとして、少しでも空きがあった場所は雪崩を起こし大量の本が床に散らばっている。掃除のやり直し、という絶望が広がった。喉奥から呻き声があがる。
「……最っ悪や。こんな狭っ苦しい場所に陣を刻んだ奴を今すぐ張り倒してやりたい」
「ははは、その相手が鷹槻さんだったらどーすんの?」
 曽祖父の名前を出され、ヒバリは眦を釣り上げる。
「顔を合わせた瞬間に魔術ぶっ放したる」
「心底楽しげに高笑いしながら避けそうだよね」
 憮然とした顔で沈黙を肯定とし、魔術陣が刻まれていた壁に視線を投げる。
 先刻まで確かに存在した壁は消失していた。その代わり、地下へと続く階段が暗闇の中ぼんやりと浮かび上がっていた。ヒバリはびっと勢いよく指を突きつける。
「よしアズ、片付けはあとにしてとにかく進もう」
「えー。ヒバリ、君って本当に無鉄砲だよ。少しぐらい躊躇なさい」
「もし危険が迫ったらアズが助けてくれるやろ? だから平気や」
 上から息を呑む気配が伝わった。なんだろうと思い顔を上げるもそっぽを向かれた。
「……君ってそういうところ狡いよね。無自覚な子ってほんっと性質悪いよなーァ」
「何ぶつぶつぼやいとんの。はよせんとわたしの魔力が無駄に消費されることになるやん」
 胸元をグイグイ引っ張って催促すると、アズは大仰に肩を竦めて移動しはじめた。階段に意識が逸れているヒバリは気付かなかったが、幼馴染の耳朶はうっすらと紅潮していた。


 ヒバリ達が地下に一歩足を踏み出したその瞬間、辺りがぱっと明るくなった。
「ぅわっ?」
「ふん……どうやら魔力に反応しとるみたいやな」
 いきなり明かりに照らされて、思わず眼鏡の上から手を翳す。壁の両脇で一定間隔に灯る松明に簡素な魔術陣が刻まれているのをヒバリは目敏く気付き、芸が細かいとぼやく。
 ここは空間を捻じ曲げ第二図書室と繋げて作られた場所らしく、岩盤で囲まれた道は冷え冷えとして若干肌寒い。人工的に削られて作られた凹凸の階段は、龍族のアズにはなんら支障なく、ヒバリに微細な揺れすら感じさせず下りていく。
 入口から距離が遠ざかるに比例して気温も下がり、ヒバリは無意識に身体を震わせた。密着する身体から伝わるそれに気付いたアズの足が止まり、心配げに顔を覗き込んできた。
「そうだった、ヒバリは人間だから寒さに弱いんだったね。おれの制服でも羽織っとく?」
「や、アズにくっついとるからまだ平気」
 わざわざ借りるのも億劫でそう言うと、何故だか上擦った声をあげられた。「これがツンデレ、ツンデレなのか!」と妙な独り言を口にする幼馴染に心底哀れみの篭った目を送り、暫くしてその視線に気付いたアズは頬を引き攣らせたかと思いきやヒバリから顔を背けた。幼い頃からずっと一緒にいるけれど、時折本気でわけのわからなくなる男だと改めて認識する。
 永遠に続くのではないかと思わせる螺旋階段は、それほど時経たずして終点を迎えた。
 その先には第二図書室とそう変わりない面積の洞穴が広がっていた。天井は数メートルと高く、片隅には木製の机と椅子、そして本棚を並べて設けているだけでひどく閑散としている。水滴が落ちる音がどこからか木霊して聞こえ、四方囲まれた壁の向こう側に洞窟が続いているのだろうと予想される。
 しかしそれらはすべて、目前のものに比べればほんの些細なことでしかなかった。二人はゆらゆらと揺れる松明の炎に照らされる部屋の中枢を凝視めていた。
 そこには――今までお目にかかったことのない、強大で複雑な紋様のした魔術陣が存在した。そしてその中央に、ひとつの影が蹲っていたのだ。
 ヒバリはこれ以上ないくらいの驚愕に目を見開き、アズの胸を乱暴に叩いた。
「アズ、おろして。もう歩ける」
「あ、うん」
 アズはうわの空で返事をしてその小柄な身体を丁寧な動作でおろす。ヒバリは若干足許をふらつかせながらも距離を縮めていき、それの前に腰を下ろすと指に魔力を通してなぞりあげた。この魔術陣周辺だけやけに平らな足場を注視する。刻まれた線は魔力の輝きを失い、硬い地面を掘るようにして陣を形作っている。
「――効力は、もう失っとるな。とはいっても今は、としか言えんけど。何度でも使えるようきちんと地面を抉っとる。んん、もしかして図書室にあった魔術陣がこれと繋がっとったんか? それならわたしがこれほどまでに魔力を吸い取られたんも納得できるな……つか多分、これ地脈のエネルギーも利用しとる。……うああ、すっごい。この陣を構築した人天才や! なんやろねこれ、研究意欲がめっちゃ湧く!」
 徐々に興奮が増していき、珍しく満面の笑みを浮かべるヒバリの頭に、アズは宥める意図を持って手を置いた。その表情は色々な感情が入り混じり複雑めいていた。
「……ヒバリさん、そんなことより人だよ人。その魔術陣の真ん中に人が倒れてんのよ」
「あっそうやった」
 ヒバリははたと我に返り立ち上がった。
 領域内に足を踏み入れても大丈夫かどうか確認するはずが、つい熱心に観察してしまっていた。深呼吸をして浮かれた気分を落ち着かせる。
 横たわる影は、どうやら小さな子供のようだった。ヒバリはそろそろと近寄り、その背中に手を伸ばす。
 身体を精一杯縮めてうつ伏せる姿は、何かに警戒する子猫を連想させる。そのせいか触れた途端、牙を剥かれるのでないかと要らぬ心配をしたが、ここまで騒いでおいて何の反応も見せぬ辺り、相手は意識がないらしい。ヒバリはほっとして、遠慮なく相手をその場でころんと転がしてみた。
 甘い蜂蜜の如く浅黒い褐色の肌。
  闇夜に溶ける黒檀のような艶やかな黒髪。
  閉じられた瞳が菫色をしていれば――。
  ヒバリは呼吸すら忘れ、仰向けになった子供を唖然と見下ろした。「なんで……」と間の抜けた声が背後から聞こえる。彼等はこの子供の正体を骨身に沁みるほどに深く知っていた。
 小さな頃から繰り返し論じた物語に出てくる登場人物。
 我儘で奔放な美しい人。
 魔術師と少女に出会うことで変わっていく、誰よりも気高き男。
 あの御伽噺の王子様が、夢でも幻でもなく、二人の前に確かに実在していた。


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