Act.1-5


 手触りが滑らかなシルクをたっぷりと使用した、高級感漂う白い衣装。上に羽織るは細い糸目による精細な図柄にぼかしを加えた青い彩りの外套で、日本の伝統工芸の染物を思わせる華美とは違う類の上品さが表れる。左に流した髪型により露になる右耳には、金の輪のピアスと、外軟骨には薔薇と紫水晶の宝玉を組み合わせたゴシック調のイヤーカフス。他にも黄金と宝石の装飾品を数多とつけて――どこからどう見ても異国の王族にしか思えなかった。何より驚いたのは、腰元の美しい装飾が施された鞘に収まった長剣。こんなものを現代で所有している人物がいるとしても、金持ちのコレクターぐらいだろう。
 ヒバリは彼の全身をじっくりと観察した後に、うろたえる幼馴染を振り返った。
 魔術陣に倒れる奇妙な子供を、魔術を学ぶ者として冷静に判断しなければならない。眼鏡の奥の大きな瞳を鋭く細めて「連絡」と端的に告げる。アズは動揺を隠しもせず「れ、んらく?」と同じ言葉を繰り返す。いつになく冷静さを欠く彼に溜息混じりで説明する。
「アズは今すぐここを出て家に連絡して迎え寄こして。こんな格好した子供を堂々と連れて帰るわけにはいかんしな。ジジイは今おらんから相談できんし、それはわたしが後でなんとかする」
「あ、そっか。ヒバリは?」
「わたしはまだここでやることがある」
 自分の全快といいがたい体調も含め、連絡するのに適任なのはアズの方だろう。
 アズは指示を飛ばす相棒の落ち着き払った様子に流石に頭が冷えたようで、両頬を叩いて顔を引き締めるとすぐに階段を上っていった。ヒバリはそれを見送るまでもなく片隅の机に移動した。
 埃が溜まった机上には、入口からは気付かなかったけれど一冊のノートが置かれていた。随分と手にとられていなかったようで、持ち上げるだけで僅かな煙が舞い上がる。思わず眉根を顰めるも、無言でノートを開いて中身を確認する。
 そこに使われている言語は、二種類。
 どちらもこちらの世界では存在しないはずの言葉の羅列。
 しかしそれをヒバリは丁寧に、余すことなく読み解いていく。自然と背筋がピンと伸び、伏せる睫毛は長く陰影を作り、淡いピンクの唇は難解な問題に直面したかのように固く引き結ばれる。捲る手は止まらず、現状を忘れのめり込む姿勢は一途すぎるほどに真っ直ぐだ。
 いかほどの時間が経ったのか……癖の強い長い髪が頬にかかり、指で振り払ったところで、優しく肩を叩かれた。
「ヒバリ、連絡したよ」
「……あぁ、アズか」
 いつの間にそこにいたのか、少し前に階段を駆け上っていったはずの幼馴染が、苦笑を滲ませてヒバリを見下ろしていた。ヒバリはいつになくぼんやりとした表情で、感嘆ともいえる吐息をつきながら、大切げにノートを閉じて胸元に抱き寄せる。その夢うつつな様に、アズはきょとんと首を傾げる。
「そんなにその中身すごいの?」
「うん。わたしの知識不足でわからんとこはいっぱいあるけど、一生に一度お目にかかれるかどうかの代物やね」
「そんなに? それはまたすごいもの手に入れたね」
 大量の紙束が挟まれた、大切に使われたとわかる小汚いノート。書かれている内容は、現地点のヒバリではどうしようもない代物。けれど今知るべきことはわかったのでとりあえずは満足だ。
 ヒバリはゆったりとした足取りで、魔術陣の子供の許へ向かった。
「アズ、じゃこの子おぶって帰ろか」
「はーい」
 未だ意識のない異国の子供を改めて視界に映し、ヒバリの口端が釣り上がる。
 魔術師の本能が高揚感を誘う。
 面白いものが来たぞ、と。
 これといった変哲のない日々が変化する瞬間を……魔術師の道を歩み始めた時から指し示されたレールが幾重にも枝分かれする時を目の当たりにした心持ちだった。


 第二図書室を出た頃には、部活動の時間もとうの昔に過ぎており、校舎の電灯も落ちて闇色の空が広がりつつあった。二人は教員に出くわさないように足音を殺して早々に裏門を出た。幸い玄関は未だ鍵がかかっていなかった。
  門の近くに、歩道に並ぶ街灯に照らされて、一人の男が一台の車に寄り掛かり煙草をふかしていた。その横顔は感情を乗せず、きつい目付きと黒に近いスーツを着ているせいである種の仕事柄に付く輩に見せる。けれどヒバリは彼の姿を目に留めた時、明らかな喜色を目に宿した。
「学ちゃん!」
 学と呼ばれた男は、待ち合わせていた二人の姿を確認し、目尻に皺を寄せてくしゃりと笑った。それだけで物騒じみた雰囲気を払拭し、悪童のような無邪気な印象をもたらした。学は煙草を携帯灰皿に押し付けて「よぉ」と声をかけた。
「遅かったな。また厄介なことになってるらしいじゃねぇか」
「なんで学ちゃんがここにいんの? 母さんたちは?」
 ヒバリは学の前で足を止め、アズより高い上背の男を見上げる。
「夕飯の準備で忙しそうだったからな。ちょうどいいタイミングで家に押しかけた俺が代わりに来たんだ」
「じゃ今日は一緒に夕飯食べれるん?」
「ああ。おい小僧っ、抱えた荷物と一緒に後ろに乗れ」
 学はヒバリより少し距離を置いたところに突っ立っている少年を呼ぶ。アズはヒバリと正反対に心底嫌そうな顔で渋々車に近付いた。
「なんであんたが来んのかなーァ、最近顔を見ずに済んで心安らかだったのに」
「そうかそんなに俺と会えて嬉しいか小僧。だが残念なこと野郎のマゾヒストは好みの範疇にねぇんだ、諦めてくれ」
「今のでどうやったらそんな歪んだ解釈できるの!?」
 一瞬にして青褪めるアズを無視して、学はヒバリの頭にぽんと手を乗せ、腰を大袈裟に屈めて顔を覗き込む。一見すると誘拐犯と子供の構図そのものである。
 学はヒバリの顔色があまり優れないことを即座に見抜いたようで、その小さな肩に手を移動させ、運転席の隣のドアを開き座るよう促した。
「おら、こんなとこでちんたらやってねぇでさっさと行くぞ」
「うん。学ちゃん、迎えに来てくれてありがとう」
 ヒバリはその厭味のないエスコートに素直に従い、普段より血色の良くない頬を僅かに緩めた。対する学も顔に似合わず穏やかな笑顔を返した。
 学の苗字は相良といい、ヒバリの母、彼方の五つ離れた弟である。三十代半ばを迎えながらも余裕の態度で独身を通し、たびたび香月家に足を運んでは父、目白と酒を手に雑談を交わしている。目白の同級生兼親友という間柄で、彼方との仲を取り持ったのも学だ。
 そんな学は親友と姉の娘のヒバリを猫可愛がりしていた。ヒバリの方も顔を合わすたびに彼の後ろをついて回り、それを気に食わないとアズが噛み付くが遊ばれて終わるというのがいつもの光景だった。
 電車と違い車で移動すると十分も経たず香月家に到着した。ヒバリ達は先に降りて、学が近くの駐車場に車を止めに行っている間に玄関を潜った。
 住宅街から離れたかなり大きな敷地の一軒家に住むのはたったの四人。両親の二人と娘のヒバリ、そして同居人のアズである。外観は物々しい雰囲気を持つ古臭い洋館で、あり余った部屋は客室として使われており、手抜きなく綺麗に掃除されている。
 二人は入口のすぐ横に設けられた下駄箱入れのスリッパに履き替えて、正面広間から右の部屋に突き進む。
「ただいま」
「ただいま帰りましたーっ」
「ひぃちゃんあーちゃんおかえりなさーい」
 ダイニングを漂う夕飯の香ばしい匂いの中、ぱたぱたとスリッパを鳴らしてキッチンから出てきたのは二十代に届くか届かないかぐらいの可愛らしい女性だった。胸にかかる程度の長さの黒髪を後ろで緩く結び、白いフリルのエプロンを身に纏った姿は、妄想でよくある夫を出迎える初々しい新妻を浮かばせる。
「母さん、客室のベッド使ってもええ?」
 そしてこの年齢詐欺といえる女性こそが、香月家の母である彼方だった。
 彼方はアズが背負う子供にすぐに気付き、あらまあとばかりに右手で口を押さえる。
「とっても身分が高そうなお坊ちゃんね、今はお昼寝の時間?」
「その言葉だけで済んじゃう辺りが彼方さんらしいですよね」
 アズは苦笑し、どう見ても普通でない子供をよいしょっという掛け声と共に背負いなおす。
「で、客室は使ってええの?」
「二階奥の部屋なら使ってもいいわよ。着替えはどうしようかしら、そのまま寝かせるわけにもいかないし……あっそうだ! 物置にあーちゃんが小さい頃に使っていたお洋服がしまってあるはずよ、後から取り出すわね。けど今は忙しいから代わりに目白くんのパジャマを使ってね、目白くんの部屋のクローゼットに入ってるから。あとついでに書斎でお仕事に励んでるはずの目白くんを呼んできてくれたら嬉しいわ、もうすぐごはんの準備が出来るから。あ、そういえばまなちゃんはどこにいるの? ひぃちゃんたちを迎えに行ってくれたはずなんだけどどうし」
「あーはいはい。学ちゃんは車を止めに行っとるし、すぐ戻ってくるから。わたしらはさっさとこの子寝かして父さん呼んでくるわ」
 息つく間もなく捲くし立てる母の言動をつれなく遮り、ヒバリ達はこの場から足早に立ち去る。彼方も止めるつもりはないらしく、それはもう花が咲き溢れんばかりの笑顔で「よろしくね」と頼んだ。香月家で最強なのは、間違いなく彼方である。
 アズを先に客室に行かせ、ヒバリは父の部屋からパジャマ一式を拝借した後に、一階に降りてダイニングと反対の位置にある扉を開けた。
 壁の代わりに本棚に囲まれた室内は、最奥に設けられた大きな窓を背景に座る人物をより強く印象付ける。傍らに大量の書物が積み上げられたデスクに置かれたスタンドライトのみが明かりを宿し、ぼんやりと淡い照明の中でノートパソコンに向かい合う男は、普段の温厚さが嘘のようになりを潜め、秀麗な顔付きに正体不明の緊迫感を張り付けている。しかしそれはこの家に住む者達にとってとりたてて変わった事でなかった。むしろ見慣れていると言っていい。
 ヒバリは扉のすぐ横にある照明のスイッチを入れた。部屋全体がぱっと明るくなり、正面奥に座る男は「うあーっ」と緊張感に欠ける悲鳴をあげて顔を覆い隠した。
「――父さん、電気つけんとますます目ェ悪なるって何度言ったらわかんの」
「あれ、ひぃちゃん帰ってたの? わっなんか暗いなぁと思ってたらとっくに七時過ぎてるよ」
 男は野暮ったい眼鏡を押し上げてごしごしと目蓋を擦りながら画面の時刻を確認する。そこにはつい先刻までの圧倒される剣呑さは欠片すら見当たらない。このどこか間の抜けた男性が、香月家の父である目白だった。
 目白は長時間同じ姿勢でいたために重い腰を摩りながら入口に向かい、そこに立つヒバリに朗らかな笑顔を見せる。学と同年代だというのに二十代半ばに映るのは、娘が受け継いだ柔らかな栗色の髪と穏やかな黒色の瞳が、優しげな風貌をより若々しく見せるからだろう。
「おかえりひぃちゃん、ひぃちゃんがここにいるってことはそろそろ夕飯の時間かな?」
「ただいま。父さんの予想通り夕飯の時間やね。ちなみに今日は学ちゃんも来とるよ」
「ホントに? 学も来てるんだ、嬉しいなぁ」
 心底嬉しげにはにかむ目白は、決して人懐こい性格ではないけれど仕事柄人付き合いがそう多くないので、数少ない同性の友人と戯れる時間をとても好いている。両親の浮世離れした思考回路を受容した上で仲良くしている学には感謝以上に尊敬の念すら抱く。
「今日学がお泊りできるなら、仕事の合間にネットで購入した赤ワインを出してもいいなぁ。フランスのブルゴーニュ地方のワインでね、なかなか値が張ったけどたまにはいいかと思って」
「いつもやったら折檻やけどな」
「ハハハ、ひぃちゃんは手厳しいなぁ。そういえばその手にあるのはぼくのパジャマみたいだけどどうしたんだい?」
 流石に着慣れている物は覚えているらしく、ヒバリの手にあるパジャマを不思議そうに眺める。
「あーこれな。いきなりで悪いんやけど、今日家にもう一人客がおってな。今寝とんのやけど寝んのに不便な格好しとるから、代わりの着替えにこれを使えって母さんがな」
「ぼくのパジャマってことは……相手は、おと、こ?」
 目白の声色がやけに低く響いた。
「うん? そうやね」
 けど子供やからサイズ合わんのよな、と付け足す前に、目白が無言で部屋を出て行った。
「えっあっ父さんっ?」
 ヒバリは慌てて後を追いかける。
「おー目白、どうした。んな般若みてぇな面して」
「どいてくれ学、ぼくは今から抹殺対象のところへ急がなくてはならないんだ」
「はぁ?」
 書斎を出た先では、学がぽかんとした表情で階段を駆け上っていく父の背中を見送っていた。唯一頼れるといえる大人に躊躇なく縋り付く。
「学ちゃん! 父さんがなんか変なんやけど! いつも変やけど今は特におかしいの!」
「あぁヒィか。どうしたんだあいつ? あいつがあんなに弾けてんのって滅多にねぇぞ。つぅか社会人になってから初めてなんじゃねぇ?」
 そうこう言っている間に、二階からバターンバターンと不吉な大音量が響いてくる。二人は顔を見合わせて、次の瞬間並んで走り出していた。
 目白はおどろおどろしい形相をして、反則的速度で部屋の扉をぶち破らんとする勢いのまま次々と空いた客室に踏み込んでいた。その姿は彼が限界地点まで追い込まれた時より遥かに凄まじい。どうしてこんなことになっているのだろう。原因がまったく掴めていないヒバリは困惑するしかない。
「目白ってめぇ一体全体どうしたってんだ……!」
「ああ学……ぼくはもう駄目だよこういう事態になって初めて心構えというものをまったくしてなかったことに気付いたんだ。娘がいるってことはこういうことなんだね、ああとても辛いよ苦しいよもう殺すしかないと思うのだけどどうだろうか」
「父さん何言っとんの!?」
 ヒバリがひっと喉を引き攣らせた。
「意っ味わかんない! 誰を殺すっていうん……っ」
「もちろん娘が連れてきた男に決まってるじゃないか!」
「男っつーても!」
「問答無用!」
 そして父によって最後の扉が開かれた。
 三人の目に飛び込んできたのは――、
「……うん。なんかごめん、邪魔したわ」
「ドマゾな上にショタコンでホモで果てには強姦か。立派な変態だな」
「アズくんそういう趣味だったんだ……」
 いたいけな子供を寝台に押し倒した挙句、服を脱がそうとしているアズだった。
 褐色の肩が剥き出しになっているところに顔を寄せて、何やら真剣に向き合っている姿は、キスを仕掛ける寸前を窺わせていかがわしく映った。すなわち、犯罪者的な臭いを感じた。
「えええちょっ、いきなり入ってきたと思ったら何を言ってるの!?」
 アズは彼等の反応にギョッとして叫んだ。その動揺ぶりは逆効果で、ますます不審を抱かずにいられない。
 ヒバリは顔を背け、学は爆笑し、そして目白は哀れみの目線を送った。
「ウン、ホントゴメン」
「はっはっは、小僧もとうとう犯罪者かー。せめて裁判は見に行ってやるからな」
「アズくん、せめて彼に同意を求めないと駄目だよ……」
「一体何を誤解してんのみんなあああぁぁっ!?」
 この日、この心の底からの絶叫は香月家の周辺にまで響き渡ったという。


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