Act.1-6


 果てなく続く無限回廊。何百年にかけて増築を繰り返し、いつしか誰一人正確な道筋を辿ることが出来なくなった一角が彼の王宮に存在する。
 しかし例外が存在するのも然り――彼等は逃げていた。
 小さな歩幅を限界まで伸ばし、長年培ってきた底知れぬ体力を削って全速力で駆け抜ける。廊下の柱に設けられた松明は本来の役割を果たさず、大きな窓から差す月明かりのみが照らす道標となる。背後から聞こえる多数の足音に追い立てられ走る二人の内、片割れは自分達が逃げ切れないことを悟りつつあった……たったひとつの方法を除いて。
 それを試した結果、ウルヴァーン・サンクワイル・ガルガンシアンは、途方のない混沌の波に呑み込まれた。


 アズの変態疑惑浮上は、痺れを切らした彼方が呼びに来たことで一旦おひらきとなった。
 学はさておき、ヒバリと目白が半ば本気で誤解をしているのを察したアズは、夕食の場を含め約一時間半かけて彼等の疑いを解いた。現在は夕食を終えて、各々の自由な時間を過ごしている。大人組はそのままダイニングで会話を楽しんでいる。普段ならばヒバリ達も参加するのだが、今回はそういうわけにいかない。
 アズに例の子供を任せて、ヒバリは一人、とある一室に杖を両手に佇んでいた。
 香月の屋敷には一、二階の他に地下へと続く階段が存在する。地下は倉庫ともう一部屋、魔力持ちでないと開かない扉が構えてあり、その室内にヒバリはいた。
 入口正面の壁には書物がびっしり並び、反対側には生活をする上で用途のわからない物ばかりが置かれている。それらはすべて魔術に関わり、要は一般人には不必要な物である。その他に横長のデスクと座り心地の良さそうな革張りの椅子が奥に接してあり、魔術を嗜む者が現在この家でヒバリとアズの二人しかいないので、ここは彼等専用の部屋といってもよい。
 床には第二図書室で見られたものと同じ光の線で描かれた魔術陣と、その中央には淡い桜色の封筒が置かれている。ヒバリは陣に杖を突き、既に大半を消費した魔力を更に練り上げるのに意識を集中させる。
 目的の人物には携帯も通じず、何度かけなおしても電源が切られたまま。当初から期待していなかったけれど、それでも腹が立つのは致し方ない。繋がればこんなしち面倒臭い作業をせずに済んだというのに……ヒバリは溜息混じりに口を開き、朗々とした口調で唱えはじめた。
【我が意思を伝えし羽ばたく漂鳥よ 神速を誇り跳躍す片翼】
 紡ぐ言語は本当ならば地球上に存在しない。
 世界中の誰が聞き取ろうとしても、その言語の意味を解する者はいないだろう。
 それ故に彼等――すべてを継承した一握りの者のみが魔術師の資格を与えられる。
 底知れぬ力は強大過ぎて、使い道ひとつでこの世界の根本を壊しかねない。だから普段はいかに便利だと理解していても、安易に使うことは許されない。よって彼等は感情を操作し冷静に判断を下せる者に限られる。
【確定するは約束の楽園 座標の架け橋となり飛翔せよ】
 ――そしてわたしは魔術師になった。
 魔力が意思を持って杖へと流れ込み、魔術陣が更なる輝きを放つ。
 それは一瞬だった。
 置かれた手紙と一緒に、魔術陣も痕跡を残さず掻き消えた。
 元通りの床板が現れ、ヒバリは小さな嘆息をついてその場にへたり込んだ。学が確認した時点より明らかに青褪めた顔色を晒し、浅い呼吸を繰り返しながら頭を垂れる。
 発動させたのは、高等魔術の一つ【転移】である。陣内の対象物を設定し固定させた座標へ向かい一気に飛ばす芸当といえばいいだろうか。魔術を行使する上での短縮を怠らず、また少々アレンジが施されているぶん魔力の節約はされているけれど、どちらにせよ疲れることに変わりない。眼鏡を外してそのまま床にうつ伏せに転がった。
 これで今出来る限りのことはすべて終えたはずだ……子供の看護を幼馴染に任せたままだが。責任感以上に、強制的な眠気が襲い目蓋がとても重く感じる。頬に当たる冷たい板の感触が心地よい。
 ヒバリは抗うことすらせず、そのまま意識を閉ざした。


 硬く閉じられた目蓋がゆるりと開かれる。
 潤みを帯びた視界に映るのは、菫色の瞳をした男の子。
 生理的に滲んだ水滴を拭おうとしたら、滑らかで柔らかい何かが目許に触れた。擽ったくて喉を鳴らすと、彼の方も笑ったような気がした。蜂蜜色の指がそのまま優しく頬を撫でて、それがとても気持ちよくて再び眠気が襲ってくる。
 まるでお日様の匂いがした毛布にぬくぬくと丸まっている子猫のような心境だ。飼い猫はきっとこのような気持ちなのだろうと思う。安心感というか、落ち着ける場所があるというか。アズのような空気の如く当たり前に傍にいる存在と、同じようでいて別の意味の。
 思い出すのは、砂漠の国の御伽噺。
 中途半端で、けれど不思議と心に残る終焉のない物語。
 口が勝手に動く。
 おうじさま……と呼ぶ。
 きっとこれもまた夢なのだろうと、今度は穏やかな心持ちで眠りに落ちた。

 だからヒバリは知らない。
 看護されていたはずの子供が、とうの昔に目覚めていることを。
 あれから数日が経過していることを。
 自室で眠るヒバリを見守る彼が――なんともいえない表情で彼女を見下ろしていることも、何も知らない。


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